召集兵だった海軍の夫と幼い息子二人とともに、派遣先の熊本県天草にいた。九日夕、ラジオを聞いた知人から「長崎に大型爆弾が落ちたらしい」と教えてもらった。私が長崎出身と知っている近所の人は皆「大丈夫ですか」と心配してくれた。浜辺から対岸の長崎を見ると、白い煙がもくもくと上空に伸びていた。
私も夫も、実家は浦上地区。長崎の家族が心配ですぐに長崎に渡りたかったが、天草と長崎の茂木を結ぶフェリーは当時、燃料不足で欠航していた。燃料と金を渡して漁師の人に頼み、十一日朝、小船に一家四人乗り込み、茂木を目指した。海上は日差しが強く、傘を差して赤子を抱いていた。
茂木のホテルで一泊し翌朝、立山町(当時)の叔母の家に歩いて行った。長男は当時三歳だったが、泣きもせず歩き続けた。
叔母は九日の晩に私の兄と妹が来たと話した。立山町は高台にあり、原爆の被害もあまりなかった。二人は浦上から避難したらしいが、家族が心配ですぐに浦上に戻ったという。九月に妹と会った際、妹は「姉ちゃん、髪のずるずる抜けるとさ」と話したが、大変なこととは思わなかった。原爆の存在も人体への影響も知らなかった。そして間もなく、二人とも死んだ。
立山町から実家の上野町(現在の橋口町)に行く途中、浦上地区全体を見下ろし、その光景に足がすくんだ。一面焼け野原で、浦上天主堂は破壊され、煙がくすぶっていた。言葉が出なかった。実家近くの一帯は半焼けで腐りかけた人たちの遺体や牛、馬の死がいが転がっており、よけながら歩いた。においもひどく、鼻を押さえなければ歩けなかった。
付近にはいくつもの掘っ立て小屋があり、兄妹がいないか一つ一つのぞいたが、駄目だった。
実家は跡形もなかった。きょうだいは七人いたが、一人は戦死、五人は被爆して死に、私だけ生き残った。
<私の願い>
戦争が終わったときは「やっとまともな生活ができる」と、ほっとした。戦争や核兵器の悲惨さとばかばかしさは体験した人でないと分からない。国同士争わず、核も持たず、平和な世界を実現してほしい。