高田市三郎
高田市三郎(79)
高田市三郎さん(79) 爆心地から3・2キロの長崎市飽の浦町1丁目(当時)で被爆 =平戸市津吉町=

私の被爆ノート

窓の外で強烈な光

2006年10月12日 掲載
高田市三郎
高田市三郎(79) 高田市三郎さん(79) 爆心地から3・2キロの長崎市飽の浦町1丁目(当時)で被爆 =平戸市津吉町=

平戸市戸石川町に生まれ、十四歳で長崎市に出て三菱長崎造船所の飽の浦工場で働いていた。

その中で、船の部品やスクリューの仕上げ作業をする仕上げ工場にいた。

あの日は午前十時ごろに空襲警報が出て、高台につくられた防空壕(ごう)に一時、避難した。

避難が解除されてまた工場に戻り窓の近くにいるとき、窓の外で強烈な黄色い光がした。誰かが「逃げろ」と叫んだ。時間にして数秒、数歩走った時にすさまじい音がした。

普通の爆弾のようにドンという低い音ではなかった。パーンと何かが破裂したような高い音だった。

そのすごい光と音で威力が分かった。もし工場の外にいて光を直接浴びたなら、焼けただれたことだろう。室内にいて運が良かった。

音とともに床に伏せた。訓練では両手で両目と両耳を押さえるよう習っていたが、とっさのことで手足を伸ばしたまま伏せていた。

「今のうちに防空壕に行け」と誰かが叫んだ。高台にある横穴式の防空壕のほかに、工場の敷地内には、地面を掘って入り口に鉄板をかぶせた十人ぐらいが入る防空壕があり、そこに急いだ。

壕に入ろうと手すりをつかんだら、右手から血が流れている。手首を五センチほど切っていた。必死に逃げていたため、痛みは感じなかった。床に伏せたとき、天井の明かり取りのガラスが割れて降ってきたので、その破片で切ったのだろう。壕の中にいた上司がタオルで腕をくくって止血してくれた。

けがをしたのでその後数日、福田にあった寮にいた。寮の仲間は連日、救助活動に出向き「おっとろしか」「かわいそうで飯食いきらん」と口にしていたのを覚えている。爆心地の惨状は目にしていないが、そんな話から被害がすごいことは分かった。

八月十五日、平戸に帰る汽車の中で終戦を知った。
<私の願い>
日本人は米国の核兵器の実験台にされた。被害者はたまらん。今回の北朝鮮の核実験は残念だが、核保有国は他国に「つくるな」と言うだけでなく、自らが廃棄しなければおかしい。米国には強い者のおごりを感じる。

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