父は一九四四年に病死し、九歳の私は長崎市平戸小屋町(現大鳥町)の自宅で母と姉、弟、妹二人の六人暮らしだった。あの日の午前十時すぎ、母は食料の買い出しに家野町の伯母の家に向かった。みんなで帰宅を待ちながら迎えた午前十一時二分、強烈な閃光(せんこう)が窓の外に走った。数秒後、猛烈な爆風が吹き込み、部屋の中にいた私たちの体は浮き上がった。家全体が揺れ、小さな妹二人は激しく泣き叫んだ。
平屋の家は一瞬でがれきの山に。すぐさま家を飛び出し、無意識に高台の防空壕(ごう)に逃げ込んだ。幸いなことにきょうだいに大きなけがはなかった。それでも昼間は弟妹の泣き声を聞き、夜は赤々と燃える市街を見ながら、言葉に表せない寂しさと心細さに襲われた。
「警察ならば母の行方を捜してくれる」―。二日後の十一日、約一キロ先の稲佐署を訪ねることにした。母に会いたい一心で弟の手を取り、妹を背負って出掛けた。建物が目前に迫ったその時、敵機来襲を告げるかねが打ち鳴らされた。言葉にできない恐怖でパニック状態になったことは今でも忘れられない。
ようやくたどり着いた稲佐署は、多くの負傷者でごった返していた。警官自身も包帯を全身にぐるぐる巻き、頭から血を流していた。「捜しとくけん大丈夫」と掛けてくれた声に、力は感じられなかった。
数日後、私たち五人は避難所の一つ、磨屋小(現諏訪小)に向かった。校舎内に集まっていた同年代の子どもたちは大半が負傷者。まるで眠るかのように、次々と息を引き取っていった。遺体は運動場のござの上に横たえられ、普段はごみを回収する大八車に積み込まれた。「いったいどこに運ばれるのだろう」と思いながら見送った。
やがて、私たち五人はそれぞれ親せきに引き取られた。母親と突然引き裂かれ、きょうだいはばらばらになった。すべては戦争、そして原爆のせいだ。
<私の願い>
できることなら被爆した悲しみは思い出したくない。でも、平和な世の中をつくるには努力が必要なのだろう。私たちが事実をありのまま話し、世界に”痛み”を訴えなければならない。子どもたちのため、永久に平和であってほしい。心からそう思う。