あの日、診察室にいたのは偶然だった。病気で休んだ婦長の代わりに、看護婦を務めるように言われた。看護婦の免許は持っていたが、一日二回の玄米食を実践する食養療法を手伝っていた。
長崎市の中心部から北東に位置する小高い丘に、赤れんがで三階建ての浦上第一病院(現在の聖フランシスコ病院、小峰町)があった。神学校だったが、太平洋戦争が始まると外国人の神父らが収容され、結核療養所として使われた。医師は(後に結婚した)秋月と女性の吉岡先生の二人。婦長や病院で働いていた修道士のほか、約七十人の患者が入院していた。
一階の診察室。秋月が患者の気胸治療をしているそばにいると、飛行機の音がした。秋月は敏感な人だった。「日本の飛行機の音じゃない。外を見てくれ」。そう促され、窓に向かおうとした瞬間、ピカーと光り、建物がガタガタッと揺れた。慌てて目と耳を手でふさぎ、床に伏せると、棚から落ちてきた物の中に埋まってしまった。
血が背中を伝い落ちるのを感じた。「このまま、ここで死んでしまうのかな」と考えていると、「おい、大丈夫か」と秋月の声が聞こえた。背中の上の物を払いのけてもらうと、頭から真っ白けだった。
ガラスが割れた窓越しで、病院北側の十字会(女子修道会)が燃え、南側の浦上天主堂も火柱が上がっていた。あちこちに焼夷(しょうい)弾が落ちたんだ、と思った。
重症患者がいる三階に向かおうとしたら、階段が崩れていた。上がっていると、動けなかった患者の山口さんが壁沿いに歩いてきた。「大丈夫?」と声を掛けたら、山口さんはペタッと座り込んだ。外の運動場に背負って運んだ。
病院と運動場を何度も行き来するうち、南側の屋根から煙がすーっと上がった。あっという間に火が回り、れんが造りの外壁だけを残して病院は燃え落ちた。患者や病院関係者がみんな無事だったのが、せめてもの救いだった。
十字会の修道女たちはあの時、田んぼの草取りをしていたのか、みんな光線を受け、裸同然の姿に変わり果てていた。それでもロザリオを繰りながら祈っていた。死にひんしても祈りをささげるなんて。その姿に感動を覚えた。
夜になると、飛行機が辺りを照らしながら上空を旋回した。生け垣に小さく丸まって隠れたが、眠れなかった。「〇〇ちゃん、どうしとるか」。一晩中、中心部から家族を捜しに来る人の声が絶えなかった。
三日目の朝、警防団が病院に来て、「ここを救急病院にする」と言い被爆者を連れてきた。病院の二階にわらを敷き、寝かせた。どんどん集まり、気がつくと三百人。医者は秋月一人。帰れと言うこともできず、みんなで必死に手当てした。
育ての親の叔父が病院に来た。私の骨を拾うつもりで来たらしい。元気に働いている私を見て喜んだ。「小島の家に帰ろう」と言われたが、患者を残して帰ることはできなかった。
運び込まれた患者たちはひどいけがばかり。ガラスが全身に突き刺さり、一つ一つ抜いても一日では追いつかない。傷口からうじ虫がわいている。同じような人がたくさんいる。ある程度、処置したら次の人に移らざるを得なかった。
患者が死ぬと、修道士たちが抱えて一階に降ろしていた。次々と亡くなるから、それでは間に合わず、最後は二階の窓から遺体を落としていた。その音を聞くたびにいたいたまれない思いがした。そのままにできず、運動場の隅で火葬した。燃え盛る炎を見つめながら、情けない気持ちでいっぱいになった。
◇
秋月すが子さんは自ら被爆しながら、被爆直後から患者の救出や被爆者の手当てに走り回った看護婦。救護活動にともに尽くした医師、秋月辰一郎さん(昨年十月、八十九歳で死去)と結婚した後、長崎の反核平和運動をリードした辰一郎さんを支えた。現在も被爆した浦上の丘にとどまり、朝の礼拝と辰一郎さんの墓参を日課にしている。
<私の願い>
核兵器は絶対になくなってほしい。ほかにも、劣化ウラン弾など人を傷つける兵器が、どうして世界からなくならないのか。戦争もなぜなくならないのか。人間が存在する限り、続くのか。戦争は個人と個人の憎しみではない。国と国の対立から始まる。あらゆる兵器をなくし、人を傷つけることをやめてほしい。