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私の被爆ノート

生きた人間 箱に入れ

2006年9月21日 掲載
古賀 政勇(77) 古賀 政勇さん(77) 爆心地から2.5キロの西上町で被爆 =対馬市厳原町田渕=

十六歳の私は、西上町(現中町周辺)に両親と三人で暮らしていた。国鉄に勤め、車両を修理する検車区に所属し長崎駅で働いていた。

原爆が落ちた日のことはよく覚えていないが、午前十一時二分、突然、「ピカッ」と光ったと思うと爆音がして、入道雲のような煙が現れた。自動車がライトをつけないと走れないほどの闇夜になり、周囲は火事で焼けた。県営バスに勤めていた伯父が運転するバスで矢上町の実家に逃げ帰った記憶がある。

数日後、救護や片付けのため長崎駅に行くと、建物の木造部分は焼け、コンクリート部分だけが残っていた。駅では管理部、機関区、保線区などで百人近い先輩が働いていたが誰もいない。灰が数十センチも積もり、死体がごろごろして誰が誰だか分からない。スコップや手袋もなく素手で骨を拾った。リヤカーもなかったので戸板に死体を乗せて運んだ。

まだ生きている人間も箱に入れて運んだ。ふたをすると中で「カタカタ」と音がしていた。人間を人間と思わない状況だった。死体は神ノ島町の弾薬庫に運び、火葬せず二百―三百人ぐらい詰めてコンクリートでふさいでしまったのではないか。それが夢か現実か今になっては分からない。

浦上町や松山町にも行ったが、すべて焼け野原。線路や造船所の鉄骨は曲がり、馬車を引いた馬はそのまま白骨体になっていた。路面電車に乗っていた人はそのまま焼け焦げて死んでいた。浦上川には死人が折り重なり、その光景は地獄絵どころではなかった。

防空壕(ごう)では、逃げ込んだ女性十数人が頭だけを隠し、尻を出したまま死んでいた。まだ生きている人もいて「助けてくれ」とうめいていたが助けることはできなかった。

夜はトタンで造った家で夜露をしのいだ。スコップで骨をのけて寝る場所を確保した。旧日本軍のヘルメットでご飯を炊いたがペンキ臭く、ほかに食糧もなかったので仕方なく食べた。とにかくつらかった。あの時のことを思うと、よく今まで生きてこられたと思う。

被爆者手帳は父親が申請して取ってくれた。ここ十年間は病気を繰り返し、通院している。
(対馬)

<私の願い>
原爆で人生を狂わされた。被爆者として差別を受け、今でも病気に苦しんでいる。子どもが四人いるが原爆の影響による病気が心配だ。国は被爆二世までしっかり補償してほしい。平和な世界を願いたい。

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