池田 早苗
池田 早苗(73)
池田 早苗さん(73) 爆心地から約2キロの小江原で被爆 =長崎市江里町=

私の被爆ノート

きょうだい次々と死ぬ

2006年9月14日 掲載
池田 早苗
池田 早苗(73) 池田 早苗さん(73) 爆心地から約2キロの小江原で被爆 =長崎市江里町=

長崎原爆は、きょうだい五人の命を奪った。

あの日、十二歳の私は母と手熊(現長崎市手熊町)に買い出しに行く途中だった。現在の長崎北高正門辺りだったろうか。爆撃機B29の爆音が聞こえたのに、空襲警報がなぜ鳴らないのかと思っていた。そのとき、閃光(せんこう)が走り、気を失った。意識を取り戻すと母は爆風で吹き飛ばされ、自分は木にしがみつきガタガタと震えていた。

西町の自宅に帰る下り坂で、真っ黒にすすけた男性が「長崎は全滅した。一発のものすごい爆弾が落ちた」と教えてくれた。現在の西町小の上にあった横穴の防空壕(ごう)に着くと、入り口で知り合いのお姉さんが「やけどを負った弟が中で苦しんでいる」とむせび泣いていた。近くにうずくまる男性を抱きかかえると、背中はやけどでベトベト。そのまま死んだ。爆心地方向の空は真っ赤に染まった。

倒壊家屋でふさがった道を避け、畑の中を通り抜けながらたどり着いた自宅は全壊だった。家の外にいて行方が分からない六歳の妹を父とともに捜し、近くの溝で真っ黒に焼けた遺体を見つけた。妹だった。その晩は倒壊した自宅から畳を屋外に運び出し、家族みんなで横になった。敵機が超低空飛行を繰り返し、恐ろしかった。娘を失った母は悲しんだ。

翌朝。池や井戸周辺でうめき声を上げていた重傷者らが次々に息絶えた。国鉄用地で板や木切れを一カ所に拾い集め、最後に大きな柱を重ね合わせ、父とともに妹の遺体を燃やした。

原爆投下から一週間。弟が突然死んだ。「一人で火葬してくれ」と父に言われ荼毘(だび)に付した。遺体が燃え始め、関節がグシッと音を立てた。昭和十六(一九四一)年十二月八日生まれの弟。「戦争のときしか生きられなかったね」。そう語り掛けた。

十七日から数日間に弟、妹、姉の三人が相次いで死んだ。姉は体にガラス片が無数に突き刺さり、手がしびれると言っていた。黒い斑点が現れていた。十九日、その姉に「戦争に勝ったのか」と聞かれたので「勝った」と答えると、突然姉は立ち上がり「天皇陛下万歳!」と言い残し亡くなった。
<私の願い>
原爆の影響で持病をいくつも患うが、きょうだいのために一日でも長く生きることが私の使命。被爆者は皆生き証人。今後も語り部活動を通じ、県内外の子どもたちに核兵器の恐ろしさ、平和の尊さを伝えたい。

ページ上部へ