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私の被爆ノート

4、5メートル吹き飛ばされ

2006年9月7日 掲載
貞松 馨(78) 貞松 馨さん(78) 爆心地から1.5キロの長崎市家野町で被爆 =北松佐々町小浦免=

長崎師範学校の本科一年で十七歳の私は、長崎市家野町の寄宿舎で生活していた。学徒動員され、住吉町のトンネル工場で旋盤を使い魚雷の部品を作っていた。

八月九日は夜勤明け。寄宿舎に戻り午前八時ごろ朝食を済ませ就寝。一時間ほどして空襲警報が鳴り、近くの防空壕(ごう)に避難した。しばらくして解除され、部屋に戻り再び眠りに就いた。

ぐっすり眠っていたのか、気が付くと寝ていた場所から四、五メートル先の廊下に吹き飛ばされていた。板ぎれや壁土などが落ち、窓ガラスも破片が散乱。必死に外にはい出し防空壕に逃げ込んだ。 中には、学校近くの三菱兵器工場から逃げ出した工員や動員の学生がいた。どの人も顔や腕の皮膚がやけどでむけて垂れ血まみれ。服もぼろぼろで、すごい形相だった。

周辺の民家から火の手が上がり、寄宿舎の炊事場からも出火して瞬く間に燃えてしまった。危険を感じた私たちは、学校前の小高い山に身を移した。夜になると、照明弾を落とされ、機関銃で撃たれたが、木陰やくぼみに隠れ難を逃れた。まさにこの世の生き地獄、恐怖感でいっぱいだった。

夜が明けた。私は右腕のやけどで済んだ。先生や学生と、重傷を負った学生らの救出活動を始めた。山や防空壕に救助に向かい、重傷者や死亡者を懸命に運び出した。「水が欲しい」と言うので、学校の米を預けていた農家から米をもらい、釜で炊いてにぎりめしを作ったが、のどを通る状態ではなかったようだ。

数日かけ、四人一組で重傷者らを道ノ尾駅などに運んだ。途中、敵機に襲われ「申し訳ない」と思いながら担架を物陰に隠して、川の中や木の陰に逃げ込み敵機が去るのを待った。駅が負傷者でいっぱいになり、長与まで運んだ。

十四日、佐々町に帰郷。家族は生きて戻るとは思っていなかったようで、私の姿を見て驚いていた。その後、頭髪が抜け、のどが痛み、歯茎からの出血が止まらず、下痢も長く続いた。

約二カ月の静養後に復学したが、原爆で多くの仲間を亡くした。二度と同じことを繰り返してはいけない。
(江迎)

<私の願い>
戦争は絶対にしてはいけない。各地で内戦が起きているようだが、大きな戦争に発展して、核爆弾が使われないか不安。造っても、使ってもいけない。今存在している核兵器を全部なくす運動を続ける必要がある。

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