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私の被爆ノート

空が破裂したような爆音

2006年8月31日 掲載
吉元 満雄(79) 吉元満雄さん(79)=松浦市調川町= 爆心地から約1キロの油木町で被爆 

 

 十四歳の時、集団就職で三菱長崎工業青年学校に入り、その後、大橋町の兵器製作所で働いていた。一九四五年の七月、私は十八歳になり、二カ月もすれば赤紙が来るころだった。そのころから、鉄もなくなり兵器製作の仕事も減って「戦争に負けるのだろう」との思いが強くなっていた。
 同年八月九日、朝から茂木の山中で本土決戦に備えての塹壕(ざんごう)をつくっていた。山の上からは長崎市内を一望できた。作業をしていると、遠くで空襲警報が聞こえた。もう何十回も爆撃機の音を聞いているので、音だけでB29と分かった。しばらくして、空襲警報は解除された。
 その後、急に長崎の方から閃光(せんこう)が走り、数秒後、ドカーンという空が破裂したような爆音が響いた。ビリビリと電気が走ったような爆風に襲われ、誰かが「山に飛び込め」と叫ぶのが聞こえ、必死で隠れた。
 静かになるまで待ってから、外の様子をうかがった。きのこ雲は見えなかったが、長崎が真っ赤に燃えていた。よく見ると、あちこちでドラム缶が破裂して空高く飛び上がっていた。浦上の方は厚い雲で覆われて見えなかった。
 上官らとともに歩いて工場まで戻ることにした。五島町あたりは、建物の半分ぐらいが火に包まれ、路面電車の線路跡を頼りに大橋町まで歩いた。長崎駅から先は、一面の焼け野原で何もなくなっていた。
 油木町などを経て大橋町に着いたが、工場は燃え続けていたので、その日は住吉町の山中で工事途中だったトンネルで夜を明かした。各地から難を逃れた人たちがたくさん集まってきた。けが人もたくさんいた。寝ている人もいれば、そのまま死んでいる人もいただろう。
 翌朝、上官からロシアの参戦を聞かされた。「もう日本は負けなので故郷に帰れ」と言われ、「ああ、やっぱりか」と敗戦を実感した。そして、道ノ尾から電車に乗り込み、松浦市の実家で終戦の日を迎えた。

<私の願い>
 米国が先導して戦乱を招く限り、戦争はなくならないだろう。兵器を売ってもうけようとするのは、昔の日本の軍国主義と何ら変わらない。兵器が発達すれば、ますます危険な状態になる。核兵器や軍備はないほうがいい。あれば必ず使う日がくる。

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