父親を早くに亡くし、事情があって当時、長崎市中新町の自宅で祖母と二人暮らしだった。あの日は朝から、祖母がいつものように自宅近くの共同井戸で洗濯をし、私は後ろに立って黙って見ていた。
「敵機の来よるけん、早よ家の中に入らんね」。祖母が言った。空を見上げると、飛行機らしきものがきらっと光った。洗濯が終わり、裏口から家の中に入った瞬間だった。窓ガラスの外がオレンジ色に染まった。音は覚えていないが、あのまぶしさは脳裏に焼き付いている。
原爆がさく裂した後、しばらく動けなかった。どれくらいの時間がたったか分からない。気が付くとすぐに二階に上がった。タンスも仏壇もめちゃくちゃに倒れていた。火鉢をひっくり返したようにほこりがもうもうと立ち込め、息苦しかった。
高台にある防空壕(ごう)に逃げ込もうと思い、祖母と一緒に家を飛び出した。近所の家も甚大な被害を受けていた。屋根は吹き飛び、家屋全体が傾いていた。そのうちの一軒のトタン屋根がブラブラとぶら下がった状態になっており、私の上に落下した。口元を切った。血が止まらず、手ぬぐいで傷口を必死に押さえた。
ようやく防空壕にたどり着き、周りを見渡した。長崎駅方向が夕焼けのように真っ赤に燃えていた。しばらくすると、上半身にやけどを負った人が防空壕に運ばれてきた。応急処置として輪切りのキュウリを体全体に張っており、異様な姿だった。今でもキュウリを見ると、あの姿と、鼻を刺すにおい、そして六十一年前の惨劇がよみがえる。
被爆の影響なのか、幼少時は白血球の数が少なく、ちょっとしたすり傷でもすぐに化膿(かのう)した。小学校時代に付けられたあだ名は「かさぶた野郎」。けがの治りが遅く、全身かさぶただらけだったからだ。
口元の傷は今でも残っている。あの時の記憶は心と体に刻みこまれている。
<私の願い>
戦争ほど残酷なものはない。戦争ほど悲惨なものはない。平和ほど幸せなものはない。そのためには一日も早く、全世界から戦争をなくさなければならない。命ある限り、核兵器廃絶を訴え続けていく。