長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

ガラス割れ、頭に破片

2006年8月17日 掲載
早田 博治(68) 早田 博治さん(68) 爆心地から約4.3キロの大浦東町で被爆 =長崎市宿町=

その日は夏休みで、朝、警戒警報が鳴った。隣の家に住む学校の一つ上の先輩に誘われ、二人で実家(日の出町)から歩いて二十分ほどの距離にある大浦東町の床屋まで散髪に行った。空襲警報と違い、警戒警報のときは外出自由だった。

床屋に入ると、狭い店内は順番待ちの子どもでいっぱいだった。自分たちの番が近づいたとき、外で飛行機の音がした。床屋のおばさんが「危なかけん帰らんね」と言ったが、私は「せっかく待っとったとに。どうせ日本軍の飛行機さ」と不満げに言った。

突如、「パーッ」と閃光(せんこう)が広がった。床屋の入り口近くに座っていた私は、とっさに飛び出し隣のところてん屋に入った。誰もいなかった。「ババババ」と店内のガラスが割れる音がした。

頭にじんわりと熱を感じ、触れると手に血が付いていた。割れたガラスの破片が頭に当たったようだ。私の泣き声に隣の銭湯の主人が駆け付け、その奥さんが三角巾(きん)で血止めをしてくれた。命に別条はなかった。

おばさんに手を引かれ川の暗渠(あんきょ)に避難すると、すでに大勢の人がいた。相変わらず泣いていると、おじさんが「飛行機に聞こえるけん泣くな」と言って布団をかぶせた。布団の下で家族の安否が気になっていた。一緒に来た先輩は、床屋から直接走って家まで帰っていた。話を聞いた母が私を捜しに来たが、布団をかぶせられた私に気づかず通り過ぎたという。

正午を過ぎたころ、みんなが「もう大丈夫」と言ったので、私は一人家路に就いた。川の流れる音が飛行機の音に聞こえ、恐ろしくなり、また泣きだした。

家に帰ると、母に連れられ近くの救護所に行った。十人ほど負傷者が並んでいた。「子どもを先に診てやってください」と母が頼んでくれ、赤チンキで手当てを受けた。

大浦中の防空壕(ごう)で夜を過ごした。長崎駅の辺りが一晩中燃え続けていたのが遠くから見えた。
<私の願い>
国家間の政治的な駆け引きがあるのだろうが、戦争はぜったいにいけない。苦しむのは民衆だ。近年は「高校生一万人署名活動」など、長崎の若者の頑張りに勇気をもらう。今後も全国に平和の輪を広げてほしい。

ページ上部へ