長崎師範予科(現在の長崎大教育学部)一年だった私は、厳しい学生生活の中、ようやく学校にも慣れてきたところだった。朝から出ていた警戒警報が解除され、運動場での体操の授業のため、寮に戻って着替え、渡り廊下を音楽室に向かって歩いていた。そのとき、突然、黄色い閃光(せんこう)が前方から迫ってきた。反射的に床に伏せようとしたが、バリバリというごう音を聞いて吹き飛ばされ気を失った。
気が付くとそばにあった水槽から漏れた水が顔にかかり、床には木片が散乱。顔はすすだらけになっていた。背中から腰にかけて重く太い柱がのしかかり、下半身を動かすことができず、押しつぶされそうだった。周りにいた友人から悲鳴が聞こえた。自分も助けを求めて叫び続けた。声を出すと、のしかかる柱の重みが体にこたえた。
ようやく、先輩や教官に気付いてもらい助け出されたが、その間がとても長く感じられた。幸い窓際だったため、すき間から校舎を出ることができた。教官にお礼を言い、指示された通り防空壕(ごう)に向かった。背中や腕の皮膚がはげて垂れ下がった中年男性や、農作業用の馬が死んでいるのを目の当たりにした。太陽までが濁ったように見え、見慣れた街は褐色の世界に変わり果てていた。校舎でがれきの下敷きになった級友の身を案じながら防空壕にたどり着いた。
強烈な光の恐怖からようやく落ち着いたころ、先生から「新型爆弾」と聞いた。防空壕には次々と同級生が担架で運ばれてきた。奥には、運動場にいた別のクラスの仲間が横たわっていた。皮膚は水ぶくれができ、「痛い」「苦しい」ともがいていた。私はカボチャを割って患部にあてがい、冷やしてやることしかできなかった。
長与まで移動する指示があり、歩ける者は道ノ尾駅まで一団となってとぼとぼ歩いた。途中の惨状は想像を超えていた。髪の毛を血で染め、うつろな目をした報国隊の女学生の一群の姿には目を疑った。彼女たちの姿が忘れられない。
<私の願い>
被爆の体験は私から退けられない。今の若い世代や児童にも、戦時の生活や緊張感、核兵器のない世界をと、機会あるごとに話してきた。平和は人間一人一人の心で決まる。