父の仕事の関係で、一九四五年三月に大阪から長崎市の伊良林へ転居し、十五歳だった私は県立長崎高等女学校に通った。しかし、すぐに学徒動員で三菱長崎兵器製作所住吉トンネル工場で働くようになった。私は体が丈夫で、男性と同じようにトンネルの中で魚雷の部品を作っていた。
その日はいつも通り午前十時にトンネルの外でラジオ体操をして、入り口から約百五十メートルの持ち場で仕事をしていた。しばらくして坑内の電灯が消えたと同時に、突然入り口から爆風が襲ってきた。天井のトタンが落ちてきたのは覚えているが、一瞬耳が聞こえなくなり、何が起こったのか分からなかった。
不安な気持ちでいると、入り口付近から「生き残っている者は手をつなぎ外へ出ろ」と男性の声がした。仲間五、六人で坑外に出ると、トンネルの隣にあったはずの女子挺身(ていしん)隊の寮が跡形もなく焼け、近くの鉄道の枕木も燃えていた。
被爆した人を介護した後、近くの竹林に避難することになったが、そこには一緒に仕事をしていた挺身隊の人や工員が体は焼けただれ服もボロボロの姿でいて、言葉を掛けることもできなかった。自宅へ帰りたかったが、「敵機来襲もあるかもしれない」と止められ、学友とともにトンネルの中で一夜を過ごした。
翌日、自宅へ向け同級生と二人でトンネル工場を出発したが、家にたどり着くまでに見た悲惨な光景は忘れられない。被爆してうめき苦しむ人や無数の死体…。道路の水たまりの水を飲もうとして息絶えた人、腹が膨れ上がって死んでいる馬もいた。とにかく怖くて必死に家へ向かった。
自宅には父はいなかったが、無事との知らせを受け数日後に会うことができた。母と弟は実家の瑞穂町にいたため、直接被爆せずにすんだ。
数週間後、髪の毛がすべて抜ける症状もあり、原爆の恐ろしさが身に染みた。今でも大きな病気をしないかと、心配ばかりしている。
(雲仙)
<私の願い>
原爆による地獄の体験をしただけに、そのむごさを多くの人に伝えると同時に、一日も早く核のない、戦争のない平和が訪れることを願っている。世界の核保有国も、人類と共存できない核の恐ろしさを深く認識し、廃絶へ向け努力してほしい。