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私の被爆ノート

壕の中、無言で抱き合う

2006年7月27日 掲載
片岡 一夫(73) 片岡 一夫さん(73) 爆心地から約2キロの本原町3丁目(当時)で被爆 =長崎市三原2丁目=

いつものように友人と淵国民学校(現在の長崎市立淵中)に登校していると、警戒警報が鳴った。「やった、学校に行かんで済むばい」。喜んで家に引き返した。

自宅の離れで寝そべって漫画を読んでいた。三菱兵器製作所大橋工場に学徒動員されていた四つ上の姉も、この日は家にいて裁縫をしていた。

「ブーン」。飛行機のエンジン音が聞こえたが、特に気にしなかった。姉は立ち上がり窓を開けて空を見上げていた。「グァー」。急旋回する音に変わった。「何かあったのかな…」

その瞬間、閃光(せんこう)が走った。急いで部屋の隅に走り伏せた。数秒後、ごう音とともに倒れてきた土壁の下敷きになった。押しのけて外に出ると、辺りはほこりで薄暗くなっていた。麦わらぶき屋根の自宅は燃えていた。数日前、広島に落とされた新型爆弾のことが頭をよぎった。

ふと気付くと、姉の顔は焼けただれていた。窓から顔を出し熱線を浴びたからだ。今もその傷あとが残る。

祖母は家の居間で生後三カ月の私の妹を抱いていた。衝撃で畳がはがれ、その下に掘られていたサツマイモ貯蔵穴に妹もろとも落ちたが、二人とも無事だった。

両親と兄は近くの田んぼで草取りをしていたが、山の陰だったため全員助かった。近くの南向きの畑で作業していた親せきの親子は、爆風と熱線を浴びて死んだという。

家の防空壕(ごう)は先の梅雨で崩壊していたので、近所の壕に一家で避難した。恐怖で皆、無言で抱き合っていた。夜になっても三菱兵器大橋工場が燃え上がっているのが遠くから見えた。

三日後、松山町で食糧配給があると知り、爆心地に足を踏み入れた。無数の死体が積み重ねて焼かれていた。少し離れた所に、頭からつま先まで全身やけどで皮がはがれ、真っ赤になった男性が立っていた。あの強烈な「赤」は今も脳裏に焼き付いている。ただただ、あぜんとしていた。
<私の願い>
戦争はばかげている。テレビで戦争の映像を見るたびに怒りが込み上げてくる。人が人を殺すようなことは絶対に許せない。自分の見えや欲ばかり考えないで、人を哀れみ愛する気持ちをみんなに持ってほしい。

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