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私の被爆ノート

這うように帰宅した父

2006年7月20日 掲載
前道 光義(77) 前道 光義さん(77) 爆心地から約3.5キロの三菱重工長崎造船所で被爆 =諫早市正久寺町=

長崎三菱工業青年学校の二年生だったが、春ごろから戦時休校となり、長崎造船所で働いていた。当時は慢性的な物資不足。建造中の航空母艦二隻のうち一隻は材料がそろわず、建造が中止されていた。防空監視員の当番だった八月一日はB29とグラマンが長崎を襲い、三菱の工場や長崎港にいた七千トン級の貨物船が爆撃される様子を高台からずっと見ていた。

九日は朝から防空壕(ごう)内の工場で、旋盤を使って船の材料を作っていた。ピカッと光った瞬間、停電と爆風による砂が同時に襲い、機械も止まった。幸いにもけがはない。電源がショートしたのか―。そう思ったが何か雰囲気が違う。作業員たちは右往左往していたが、しばらくすると浦上を中心に長崎が爆弾で全滅したと掲示板に書き出された。

午後四時、工場に非常退場命令が下り、稲佐の自宅に急いだ。しかし辺り一帯は焼け野原で、魚の配給所にもなっていた木造二階建ての自宅はない。爆風で倒れた近所の家の七輪の火が燃え上がり、周辺の民家に延焼したらしい。

母は無事だったが、父の姿が見えない。その時、鮮魚組合の幹部でもあった父は休日を返上し、爆心地近くの三菱兵器大橋工場で報国隊として働いていたことを初めて聞かされた。

夕方、近所に住んでいた叔父と一緒に工場に向かったが、父を見つけることはできず、翌日は母と二人で出掛けた。

浦上周辺は人間がごろごろと転がり、川にも死体がたくさんあった。うつぶせになった人たちを一人一人抱き起こして顔を確認したが、水ぶくれで性別も分からない。結局、二日間歩き回ったが手掛かり一つ見つからず、「もうこれ以上、捜しきれん。どこで死んだかわからん」とあきらめ、稲佐の防空壕に戻った。

十日の夕方、足を骨折し、大やけどを負った父が自力で戻ってきた。衣服は燃え、全身血だらけ。声も出すことができず、四つんばいで這(は)うように自宅を目指してきた父の姿が今も忘れられない。
(諫早)

<私の願い>
戦後六十一年が経過し、被爆者は次々と亡くなっている。長崎、広島の苦しみを二度と繰り返さないため、核兵器廃絶と世界恒久平和を訴え続けていかなければならないと思っている。

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