京都府にあった海軍兵学校舞鶴分校の生徒で、十八歳になったばかりだった。小学四年のときに日中戦争が始まり、「是が非でも戦争に勝たなければならない」というような徹底した軍国主義教育を受けてきた。「名誉の戦死」をしたいと本気で思っていた。
長崎に新型爆弾(原爆)が投下されたことは学校に張り出された新聞で知ったが、「ただし被害は僅少」と書かれていたので「空襲があったのか」というほどの印象しか受けなかった。戦況を知る手段もなく情報が遮断された生活だったので、八月十五日に終戦を知らされたときは、心底驚いた。
八月二十五日に長崎に帰ってくると、街は丸焼けで周りの山も焦げて茶褐色になっていた。東小島の実家に帰ってみると、母とおばの死を知らされた。おばの入院する病院で、見舞いに来ていた母とともに爆風で壁にたたきつけられて死んだのだという。
教師だった父は、茂里町の三菱兵器工場で学徒動員の引率をしているときに被爆した。やけどは軽傷だったが、原爆症で間もなく亡くなった。
両親を亡くしたことで、二つ上の姉と「これからどうやって生きていこうか」と途方に暮れた。陸軍にいた兄も帰ってきて、食糧やお金に苦労しながらも三人で暮らした。アルバイトや奨学金でやりくりしながら、大学に入り直し教師になった。
被爆者手帳の申請をしたが、投下から二週間以上たった八月二十五日に入市したために認められなかった。原爆症と思われる症状もなかったので追及しなかったが、爆心地からの距離で原爆症の認定が争われている状況を見ると、距離だけでなく時間という観点も必要ではないかと思う。
今は被爆体験の語り部として、長崎を訪れる修学旅行生に原爆の恐ろしさを伝えている。これまで二百以上の学校に話をしてきたが、子どもたちは本当に熱心に聞いてくれる。普段から平和教育を受けているからかもしれないが、原爆は関心を引く特別な何かがあるのではないか。
<私の願い>
戦争の悪い点は一般市民が巻き込まれること。核兵器廃絶の運動が実現して、本当に平和な世界になってほしい。この言葉に尽きる。