当時、私は東彼杵郡宮村(現在の佐世保市宮地区)にある国民学校高等科二年生(十四歳)だったが、学徒動員のため宮村の自宅から東彼川棚町の川棚駅へ通い、切符切りやポイントの切り替え作業をしていた。
あの日も、いつもと同じように作業をしていると、長崎市の方向の空に、灰色の雲を見つけた。その時は、原爆のきのこ雲とは夢にも思わず、仲間たちと「あれ、何やろか?」と見上げながら話しただけで、あまり気にしていなかった。
翌日、駅には早朝から地元消防団の大人たちが集まり、全身に大やけどを負った人たちが、次々と列車で運ばれてきた。大人たちから「長崎に大きな爆弾が落ちて、ひどいことになっている」と聞き、初めて原子爆弾が投下されたことを知った。
運ばれてくる被爆者は、みな年齢や性別が分からないほど、全身紫色に焼けただれ、私は子どもながらに焼きナスやイチジクのようだと思った。その記憶は今も鮮明に残っている。
大人たちは戸板に被爆者を乗せ、川棚海軍共済病院(現在の長崎神経医療センター)や役場に運び、私たち学生は、大人たちに搬送先を伝える誘導の役に当たった。
その日、朝から夕方まで、駅構内には被爆者のうめき声が響く中、救護に当たる大人たちが慌ただしく動き回っていた。私も悲しむ暇などなく、「病院へ運んでください」とひたすら声を張り上げ続けていた。
被爆者は、みな口々に「水が欲しい」とうめいていたが、実際に一人一人に水を飲ませられるような状況ではなかった。
それまで、宮村でも小規模な空襲はあったが死者は出ていなかった。被爆者を見て初めて「戦争ってこがん恐ろしかとやろか」と思い知りながらも、「日本が負けるはずはない」と信じて、誘導に当たった。
疲れのため、家に帰ってもすぐに寝入ってしまう日が続き、「あの人たちはどがんなったとやろ」と不安と悲しさが込み上げてきたのは終戦後だった。
(佐世保)
<私の願い>
子どもが人の命を奪う事件を新聞、テレビで知るたびに悲しくなる。戦時中、満足に食べられない中で、助け合いながら生きていた私たちの世代には考えられないこと。子どもたちは、思いやりの心を持ってほしい。