人形の服を縫ったり、すごろくをしたり、外で遊ぶのが好きなごく普通の女の子だった。当時七歳で西浦上国民学校の二年生。両親はしつけは厳しかったが、「静ちゃん」「静ちゃん」と愛情を注いでくれた。
暑かったあの日は、隣の家できょうだいや友達とトランプ遊びに夢中だった。すると、縁側からいきなりぎらぎらした黒い空気の塊のようなものがぶわんと私たちを襲い、家の外に三メートルぐらい吹き飛ばされた。気付いた時は瓦の下敷きになっていた。それからどうやってはい出したのかは分からない。ただ、夢中で近くの防空壕(ごう)に走っていた。
道にはガラス片が散乱していた。はだしだったのにけがしなかったのが不思議だった。でも、瓦で切ったのだろう。頭から血が噴き出し、胸の名札までだらだらと流れていた。痛みはあまり感じなかった。その傷は今も残っている。
仕事で小浜にいた父と、兵役で大村にいた一番上の兄以外の家族五人と防空壕で再会した。母は家の近くの畑で被爆し、上半身をやけどしていた。細くきれいだった顔は丸く腫れ上がり、首がよく動かないので振り向くこともできなかった。最初見たときはびっくりして涙が止まらなかった。
祖母の献身的な看病で母は回復。でも、親指と人さし指の付け根がくっつき、冬になるとそこが割れて痛がった。父は戦後間もなく病気で亡くなり、母は私たちを育てるため、野菜などを行商して回った。一九七三年に他界。苦労をかけたと思う。本当にありがとうと言いたい。
これまで被爆者であることは極力隠してきた。差別うんぬんということより、空襲や戦地で亡くなられた戦争犠牲者は大勢いるのに、被爆者だけが特別扱いされるのはどうなのか、という葛藤(かっとう)が心にいつもあったからだ。
結婚し、川棚が安住の地になった。家の近くには水上特攻隊員を祭る特攻殉国の碑がある。戦争で亡くなられた方すべての冥福を祈りたい。
(東彼)
<私の願い>
イラクなど世界中で戦争は絶えることがないが、次世代を担う若者たちを二度と戦火に送り出すようなことは絶対にしてはならない。