当時は助産師の学校に通いながら、産婦人科に住み込みで働いていた。薬局で調剤をしていたとき、「ウー」という空襲警報が鳴り、ピカッと光が見えた。棚に置いてあった薬品の瓶が飛んで床に落ちた。慌てて建物の裏に走って行くと、先生の奥さんが救急袋を抱えて、ぼうぜんとしていた。「防空壕(ごう)に行きましょう」と声を掛け、一緒に逃げた。後で気が付くと、左足のふくらはぎあたりにガラス片が刺さっていた。
防空壕は高台にある墓場の地下を掘って造ってあった。街は燃え、「ポン、ポン」とガスタンクが破裂したような音が聞こえた。下から舞い上がった燃えかすが降ってきて、顔に掛かった。米軍の飛行機が低空で飛んできて怖かった。
翌日から、日赤の救護所に手伝いに出た。やけどを負った患者がたくさん並んでいた。手をつないでいるが、目が見えなくなった親子もいた。患者の体にいっぱい刺さったガラス片を取り除く作業。薬品や包帯が十分になく、浴衣などの布を代用した。治療した人が翌日には亡くなっていることが多かった。おにぎりが振る舞われ、米のおいしさ、ありがたさを感じて食べた。
体調を崩したので、大浦の親類の家に世話になった。近くの防空壕の入り口に立っていたときに、「停戦だ」という言葉を聞いた。親類から「アメリカ兵が来るから地元に帰りなさい。追ってきたら、伊ノ浦瀬戸(針尾瀬戸)に飛び込め」と言い聞かせられた。
その後、義兄と一緒に実家(現在の西海市西海町)に向け出発。懐中電灯一つで夜道を歩いた。真っ暗でどこが道かも分からない。煙はくすぶっていた。遺体が転がっていたのかもしれないが、気付かなかった。馬車を引く馬が半身やけどを負い、倒れていたのだけは覚えている。時津で義兄と別れ、長浦から来たという船に乗せてもらった。二人の遺体も一緒で、ハエが飛び回っていた。
二十年ほど過ぎた四十七歳の時、甲状腺がんが見つかり、手術を受けた。子どもにもがんなどの症状があり、被爆が原因ではないのかと感じている。チェルノブイリ原発事故で、後になってがんなどを発病する住民がいると聞くと、自分のことと重なり、放射線の恐ろしさを感じる。
(西海)
<私の願い>
戦争は絶対に繰り返してはならない。そのためにはお互いに愛情を持つことが必要。憎しみを持たず、他人の立場を考えて行動していくことから始めてほしい。