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私の被爆ノート

暗闇で次々と息絶え

2006年6月15日 掲載
永野 悦子(77) 永野 悦子さん(77) 爆心地から2.8キロの長崎経済専門学校で被爆 =長崎市扇町=

当時十六歳。銭座町に家族五人で暮らしていた。八月九日は、片淵町二丁目の同校体育館で報国隊の一員として飛行機の部品を作っていた。

突然ピカッと、雷の何千倍もの閃光(せんこう)が窓から差し込んだ。直後に外が暗くなり、瓦やトタンが飛ぶ音がした。窓ガラスが割れ、爆風を感じた。思わず手で目と耳をふさぎ、床に伏せた。無傷だった。

しばらくして避難した学校の防空壕(ごう)で、男性作業員に「浦上は全滅らしかけん、はよう帰らんか」と言われ、家に向かうことにした。電車通りは人影がなく、静まり返り不気味で怖かった。

宝町付近まで歩くと浦上方面が見えた。建物が崩壊し、一面がれきの山だった。怖くてぼうぜんと立ちすくんだ。浦上へは進めず、稲佐橋を渡り、浦上川沿いを迂回(うかい)することにした。橋で親せきに出会い、父が必ず橋を通ると言われた。父は近くの三菱電機で働いており、そのまま待っていたら無事再会できた。

川沿いを歩き梁川橋を渡った。茂里町の三菱長崎製鋼所は燃え上がり、建物の鉄骨があめのように曲がっていた。腕の皮膚が垂れたり、片方の目玉が飛び出ている人たちがいた。ここでも先へは進めず、引き返して竹の久保の防空壕で一晩過ごした。ろうそくもない暗闇の中、傷ついた人たちが「助けて」「水を」と、苦しみながら次々と息絶えていった。

翌日自宅に戻ったが、家は焼け落ちていた。近所の友人に、九歳だった弟が近くの防空壕にいると聞き、そこに向かった。弟は全身にやけどを負い、両目はつぶれ瀕死(ひんし)の状態。「一晩、たった一人でどんな思いで過ごしたのか。代われるのであれば代わりたい」と、涙が止めどなくあふれた。父と近くの治療所に運んだが、やけど薬を塗られただけだった。

その後、別の防空壕に弟を運ぶ途中、金比羅山に避難していた母と妹に会った。母は弟を見ると「ごめんね。ごめんね。痛かったやろう」と泣き叫んだ。一晩中、家族で「頑張って」と励ましたが、弟は十一日に息を引き取った。遺体を焼き、燃え残った茶わんを骨つぼ代わりにした。

終戦後、父のおばの家がある小浜にしばらく住んだ。十三歳だった妹も、体中に紫色の斑点ができ、九月十日、のたうち回るようにして死んだ。
<私の願い>
鹿児島の祖父母の家に疎開していた弟と妹を、私のわがままで帰省させ、死なせてしまった。ぬぐい去れない過去で、今でも悔やんでいる。戦争や核兵器のない平和な世の中になってほしい。

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