当時、私は長崎市船大工町で下宿。川南工業香焼島造船所に船で通勤し、資材運搬に携わっていた。八月七日朝、同僚が私に一枚の紙をこっそり見せた。敵機がばらまいた宣伝ビラとみられ、「八月八日は灰の国 日本国民は一日も早く天皇に降伏を請願しなさい」などと日本語で書かれていた。
八日は無事過ぎたが、嫌な予感の中で迎えた九日―。工場で作業中、長崎市方向の空で強く青白い閃光(せんこう)が走り、熱を感じた。長崎方向を見ると大きなきのこ雲がもくもくと上がり、その瞬間、ものすごい勢いで熱風が吹いた。窓ガラスが割れ、けが人も出た。強風が通り過ぎた後、いったん防空壕(ごう)へ避難。しばらくして工場へ戻ると、工場長が私たち従業員に長崎で救援活動をするように指示した。黒パン一個と地下足袋が渡され、近くの桟橋から船で向かった。長崎港から浦上方面にかけて見えるのは煙と炎だけ。市内の造船所事業本部からトラック二台に分乗し、長崎駅方面に向かった。街中に異臭が漂い、頭や顔にやけどをした人が大勢いて、この世のものと思えない光景。けが人を車に乗せ、救護所となっていた勝山国民学校へ運んだ。
翌十日以降も救援活動が続いた。浦上方面へ向かうと、あちこちに人の死体があり、建造物の鉄骨はあめのように曲がっていた。四、五人が寄り添って死んだり、性別や顔も分からないほど損傷した死体も。浦上川では水を求めて多くの人が息絶え、悲惨で筆舌に尽くしがたい光景だった。けが人を次々に救護所へ運んだが、救護所が不足し、寺にも運んだ。
十三日夕、市内にいたいとこが子連れで郷里の深江へ避難することになり、私は付き添って諫早まで十二時間歩いた。いとこを島原方面行きの列車に乗せた後、自分は長崎へ戻った。車窓から眺めた浦上は一面の焼け野原だった。
(島原)
<私の願い>
多くの市民の痛ましい叫び声を今でも思い出す。核保有大国は、核を新たに保有しようとする国に圧力をかける一方で、自らは新型核兵器の開発をしている。平和維持が目的というなら、いかなる核も持ってはならないはず。ふに落ちない。