藤山 節子
藤山 節子(71)
藤山 節子さん(71) 爆心地から約1.8キロの現在の千歳町で被爆 =長崎市家野町=

私の被爆ノート

真っ黒になった兄見て涙

2006年6月1日 掲載
藤山 節子
藤山 節子(71) 藤山 節子さん(71) 爆心地から約1.8キロの現在の千歳町で被爆 =長崎市家野町=

当時、祖母を入れ九人家族で、二女の私は国民学校五年生。あの日は、朝から空襲警報が鳴り、家族は家の裏にあったイモ畑に掘ってあった防空壕(ごう)へ避難した。

空襲解除になり、自宅に戻った。父は仕事に出かけ、三女と四女の妹二人は近所に遊びにいった。昼前になり、部屋にあった障子に寄りかかってぼんやり座っていた。

その時、目がつぶれたのではないかと思うほどの強い光が家の中に差し込んできた。そして「ががーっ」という大音響。体ごと吹き飛ばされた。

気付くと、あおむけに倒れ、家の壁の下敷きになっていた。右肩辺りに小さいすき間があり、「お母さん、お母さん」と声を出したが、体はビクとも動かない。それでも助けを呼び続けたが、誰も返事をしてくれなかった。

しばらくすると、県立長崎中から帰ってきた長男の兄が「そこにおるのは節子か」と言って引っ張り出し、助けてくれた。ぼろぼろになった服を着て、皮膚が真っ黒になった兄を見て、悲しくなり涙を流した。「なんで兄ちゃんそげんなったと」。兄と話したのはこれが最後。一週間後に死んだ。

血まみれになった母と二歳だった五女も玄関から入ってきて再び防空壕へ。近所の人たちも加わり、座る場所もなく、血のにおいなどで正常では入れない状況だった。

夕方、仕事に出ていた父親が戻ってきたときはうれしかった。父の話によると、市中心部も家が燃え、ガラスが散らばり、歩いている人は兄のように全身がやけどで幽霊みたいだったという。

私たち家族は、傾いた家の六畳ぐらいの空間に板を打ち付けるなどして、そこに再び暮らし始めた。以後、空襲警報を聞くこともなく、B29も飛んでこないことが、うれしかったが、食料不足に悩み、毎日生活することがつらかった。
<私の願い>
二度と原爆投下があってはいけないし、戦争のない世界にしなければならない。被爆者や若者、世界中の人が平和を願うならば核兵器の使用や戦争を阻止できると思う。日ごろから、兄弟げんかなど小さな争いをしないよう心掛けることが大切。

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