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私の被爆ノート

悲惨な光景に足すくむ

2006年5月25日 掲載
田村 俊男(72) 田村 俊男さん(72) 爆心地から4.5キロの長崎市愛宕町(現愛宕2丁目)で被爆 =西彼時津町浜田郷=

当時、国民学校の五年生。あの日は夏休みで、近所の友達の家で遊んでいると、B29爆撃機のエンジン音が聞こえた。

「敵機が来た。シーツを取り込んで」と友達の母親に言われた。表に干してあった白いシーツを取りに行こうと外に出た瞬間だった。ピカッという光に包まれ、ドーンという爆風で倒れた。

近くに爆弾が落ちたと思い慌てて家の中に飛び込むと、爆風で畳の上一面に物が散乱していた。

何が起きたのか気になり、浜町方向へ向かって歩いた。皮膚が焼けただれた人たちとたびたびすれ違った。やけどのように見えたが、血と膿(うみ)が混じったような目を背けたくなる状態。当時路面電車の終点だった思案橋付近まで行くと、火の手が上がって先には進めなかった。

三歳上の姉は学徒動員で三菱兵器製作所大橋工場に出掛けたきり、帰ってこなかった。原爆が落とされ三日後ぐらいに一人で捜しに出掛けた。市街地は一面焼け野原。長崎駅を過ぎた辺りには骨組みだけになった路面電車があった。

当時の運搬手段は馬車が中心だったが、道路には焼けて馬かどうか分からないほど真っ黒になった塊から異臭が漂っていた。茂里町にあった三菱長崎製鋼所は工場が壊滅状態で骨組みしか残っておらず、鉄があめのようにぐにゃっと曲がっていた。

浦上駅に近づくと、爆弾が落ちてから三日たったというのに木の電柱の先から炎が上がり、まるでろうそくのようにゆらゆらと燃えていた。その光景が恐ろしく、足が動かなかった。

姉の死が分かったのは約一週間が過ぎたころ。貨物列車で佐世保市の早岐に運ばれ治療を受けたが、全身にやけどを負い息を引き取ったということだった。連絡を受けたときには姉の遺体は既に燃やされ、骨だけになっていた。
(西彼中央)

<私の願い>
イランなどでは国際世論の反対を押し切って核兵器開発が進められている。核を縮小し核兵器のない世界を実現するため、私たち被爆者は被爆の実相を声を出して伝えていかなければならない。

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