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私の被爆ノート

道ふさぐ無数の頭

2006年5月18日 掲載
川口 ナツ(77) 川口 ナツさん(77) 爆心地から約1.2キロの茂里町で被爆 =長崎市北浦町=

徴用先の三菱兵器製作所茂里町工場で、魚雷部品の仕上げ作業をしていた。

突如ピカッと窓が光り、ごう音と衝撃が体を襲った。気が付くと作業台の下にうずくまっていた。一瞬で周囲はがれきの山。見えるのは煙と炎。天井に設置されていた魚雷運搬リフトが落下したのかと思った。

目の前を通る男性の足にしがみついて作業台の下からはい出た。建物は全壊。二階で作業していたのに、一階に落ちていた。幸い致命傷はなかった。

その場を逃れようとすると、がれきから突き出た無数の頭が道をふさいでいた。一階で作業していた若者たちだ。口々に「お母さん助けて」とうめいていた。その光景を思い出すと、今も胸が詰まる。防空壕(ごう)に向かって駆けだした。

しばらくすると「茂木隊は出てこい」とおじさんが壕内に向かって叫んだ。実家のある茂木地区から同じ工場に通っていた六人の女の子が集まった。

「生きたかったら手をつないで帰るぞ。ぜったい離すなよ」とおじさんが言って先導。二人一組で腕を組み、線路に沿って走りだした。私が組んだ子は背中から後頭部にかけて焼けただれ、歩くのもままならない。「私のせいでごめんね」「なんば言いよっと。生きらんば。ほら、帰ろうで」。そう励まし合いながら茂木を目指した。

時折、沿線のガスタンクが爆発し足がすくんだが、「止まるな」というおじさんの声が背中を押した。はだしで歩き続けたので足の裏は傷だらけになった。足の中にはガラス片が残っている。

私と一緒だった子は途中で「もうここでよか」と言って離れた。それが最後となった。後日、死んだことを知った。

一人で歩き始めた私はたまたま兄の友人と遭遇し、しばらくおぶってもらった。その友人の知り合いのトラックが通り掛かったが、けが人で満杯。ステップに立ち、窓を開けたドアに外からしがみついたまま家に向かった。
<私の願い>
苦しいこともあったが「生き延びて良かった」と心から感じている。今の若者は幸せだ。当時は戦争のせいで青春などなかった。戦争は二度とあってはならない。「原爆」という言葉さえ耳にしたくない。

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