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私の被爆ノート

街全体に“死のにおい”

2006年5月11日 掲載
西村惣之助(78) 西村惣之助さん(78) 爆心地から4キロの中小島町(現中小島1丁目)で被爆 =長崎市中小島2丁目=

当時、県立水産学校(現県立長崎鶴洋高)の三年生だった。あの日は学校近くの下宿先から長崎市丸山町の実家に帰ってきていた。午前十一時ごろは中小島町(現在の中小島一丁目)の集合防空壕(ごう)に入り、近所の仲間たち十人ほどと話をしていた。

その時だった。光は感じなかったが、すさまじい爆音が防空壕の中にとどろいた。一瞬で全員が吹き飛ばされた。何が起きたかまったく分からなかった。

すぐに近所の人々が駆け込んできた。みな口々に「うちに爆弾の落ちた」と勘違いして大騒ぎ。防空壕から飛び出すと、れんが造りの実家は大部分が吹き飛び、畳はすべて反り返った状態だった。

「町内会長が浦上から帰ってきとらんぞ」―。中小島町の町内会長が数日前、浦上方面へ向かっていたことが分かった。当時、町内の若者を集め結成した「鉄火隊」というグループで、会長を捜しに行くことにした。

翌日の朝出発。浜町付近ではすべての命、時間が止まったような光景が目の前に広がった。長崎駅を過ぎる辺りから、目を覆いたくなる惨状が延々続いた。家屋が吹き飛び、あらわになった家庭用の防空壕には無数の遺体。すべての遺体は倍以上の大きさに膨張していた。建築資材を運ぶ馬も同様に膨らみ、まるで象のようだった。

午後になり、長崎医科大付属病院にようやく到着。中をのぞくと、言葉にできない不気味さで体が震えた。目を凝らすと、遺体と思っていたものがわずかに動く。生きている人も、遺体に囲まれて息をしているような”地獄”だった。

病院内でかすかに息をしている町内会長を見つけ出したが、すぐに亡くなってしまった。病院にいたのはわずか三時間。しかしそれは非常に長い時間に感じられた。

一週間もしないうちに、街全体に異様なにおいが立ち込めた。賑橋近くでは材木を積んで、遺体を次から次に焼いていた。何週間も街にこびりついた”死のにおい”は今でも忘れられない。
<私の願い>
あの惨状を実際に見ていない人たちが、核の平和的利用をいくら訴えようがまったく信じられない。核兵器たった一発でこの世に地獄が生まれる。二度と繰り返さないためにも、世界からすべての核がなくなってほしい。

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