あの日は、旧長崎医科大付属病院(現長崎市坂本一丁目)に入院中で、母が旧南高深江町(現南島原市)の実家から見舞いに来ていた。
一九四三年四月、三菱工業青年学校(長崎市浜口町)に入学。勉強しながら立神の工場で船などの部品製造をしていたが、栄養不足で下痢症状に悩まされ一カ月ほど入院。八月十日には退院して実家へ帰る予定だった。
空襲警報が解除されたため、母が昼食の準備をしようとしていたら突然、窓の外がピカーッと光り、ドーンという爆音がした。三十分ほど気絶し、気が付くと爆風で吹き飛ばされベッドの下にいた。天井がすべて崩れ落ち、ほこりだらけだった。母はコンクリート片の下敷きになり、頭から大量の血を流していた。
防火用の帽子やシーツを水でぬらしてかぶり、病院近くの空き地に避難したが、途中、倒壊した付属病院の看護婦寄宿舎が燃え、悲惨な光景を間近で見た。数人の若い女性が手や足を挟まれ「助けて助けて」と叫んでいたのだ。寄宿舎は木造だったため火はどんどん燃え広がり、助けようがない。まさに「生き地獄」。今でも目に焼き付いて離れない。
空き地に着くと、母はすぐ眠るように亡くなった。そこには爆風でやけどを負った人、顔が焼けただれ、目が飛び出た人もいた。けが人が大量に折り重なって倒れ「水をくれー」と叫んでいた。なぜか恐怖心もない。死んだ母がそばに横たわり、悲しかったが驚きのあまり涙も出なかった。
二日間は飲み物、食べ物、着物もなく、ふんどし一つで野宿した。三日目、道の尾駅まで歩き、汽車で深江町の実家へ帰った。浦上周辺は焼け野原で、国鉄の列車は横転、枕木も燃えていた。
実家に帰ると意識混濁状態で一カ月間生死の間をさまよった。両耳の難聴や頭痛に悩まされ、髪もすべて抜けた。右耳の聴力は回復しなかった。
五十歳をすぎてからは胃がん、前立腺がん、胆のうがんを患い、入退院を繰り返した。前立腺がんはいまだに治療中。人生の半分は闘病生活。振り返るといい人生ではなかった。
(対馬)
<私の願い>
被爆から六十年以上たっても病気に悩まされている。原爆は長崎で終わりにしてほしい。核兵器の削減は進まないが、若い人に頑張ってもらい核兵器のない世界を実現してほしい。