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私の被爆ノート

あちこちに火葬の炎

2006年4月20日 掲載
永尾 善蔵(81) 永尾 善蔵さん(81) 入市被爆 =五島市松山町=

長崎に原爆が投下されたころ、飛行兵として滋賀県にいた。出撃予定の一週間前に終戦。すぐに帰郷の許可が出た。古里五島に帰るため長崎に向かった。

線路沿いを歩き、畑のナスなどを食べてしのいだ。途中の駅から岡山まで乗り、姉の家で一泊。翌日も汽車に乗った。長崎に近づくにつれ、めちゃくちゃな惨事が広がっていて驚いた。長崎駅に到着して見回すと、停車した列車の中にむごたらしい死者が折り重なっており、ものすごいにおいが漂っていた。

住吉に住んでいた妻を必死で訪ね歩いたが、何も見つからなかった。当時の記憶は薄れてしまったが、町中のにおいにむせ、晩になるとあっちにもこっちにも火葬の炎が見えたのを覚えている。遺体は何百何千とあったから、この光景はずっと続いた。闇の中、寂しく嫌な思いでその明かりを見詰めた。不安な気持ちでいっぱいだった。

大波止に戻ると偶然、五島出身の友人と出会った。「船が通わんけん帰りきらん」。友人は別の知人らと民家で仮住まいをしていて、米や缶詰もあるという。仲間に入れてもらい大波止で毎日、五島行きの船を待った。地べたに座って寝ずの番もした。とにかく早く帰りたかった。

ある日、漁船で荷物を五島に運ぶという三井楽の漁師に出会い、交渉の末、乗せてもらえることになった。数十人が乗り込み満員。ようやく出港し航行中、大量の死んだ魚が浮いている海域があった。海面は見渡す限り魚で埋まり真っ白。原爆のためか魚雷なのかは分からない。驚いて数人が立ち上がろうとしたら船が傾き転覆しそうになり、慌てて座った。

五島に着き、妻の実家に行った。親も捜しに住吉に行ったらしいが見つからなかったという。妻は死んだとしか思えない状況で、悲しかった。

月日が流れ、大村で妻が生きていることが分かった。さらに数カ月して帰ってきたが、頭と胸に傷を負っていた。妻は原爆症に苦しみ、長崎で入院させたが治らず、医者から「ここで死ぬか帰るか」と言われた。五島に移した後、亡くなった。再婚したが、私も入退院と手術を繰り返し、痛みが続いている。
(五島)

<私の願い>
親が子を殺し、他国では戦争も続き、先が見えない時代。自衛隊の海外派遣など不安も多い。子や孫が原爆のような悲惨な目に遭わない世の中が望み。二度と戦争をしてはいけない。

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