山里国民学校に在籍し、浜口町に母と二人で暮らしていた。夏休みで、母が勤めていた坂本町の長崎医科大付属病院に寝泊まりしていた。
九日は朝の空襲警報が解除された後、同い年六歳の男の子「しげちゃん」と病院の屋上へ遊びに行った。しげちゃんが「(一階の)トイレに行きたいから、一緒に降りよう」と言ったので、エレベーターに乗った。
一階に着き、廊下に飛び出そうとした瞬間、ピカッと大きな火花のような閃光(せんこう)が走り、気絶した。パチパチと何かが燃える音と煙のにおいで意識を取り戻した。爆風で廊下の板がはがれ、私は床下の地面に転がっていたが、無傷だった。
床下からはい上がり、明るい場所を目指した。すると、頭から血を流し、白衣が血で染まった看護師がいた。「警防団ば呼んでこんね」と言われた。人に聞けば居場所が分かるだろうと思い、病院の外に出た。皮膚がふくれあがったり、目が飛び出た遺体がたくさん転がっていた。大きなクスノキが何本も倒れて燃えていた。
自分のことに精いっぱいで、遺体に驚いている余裕はなかった。たくさんの人が向かっているのを見て、江平町の寺「穴弘法」に向かうことにした。途中、何度か市街地を見下ろしたが、一面火の海だった。大粒の雨がパサッパサッと、大きな音を立てて降った。黒い雨だったと思う。
穴弘法に着いたが、そのうち人でいっぱいになったので、今度は金比羅山の高射砲台に向かった。夜も市街地は燃え続けていたのだろう。空は暗赤色に染まり、金比羅山の神社の鳥居が黒く浮き出て不気味だった。
離れ離れになった母を心配する余裕がやっとできた。「長崎医科大付属病院に戻りさえすれば、母に会えるだろう」と考えながら、砲台近くの防空壕(ごう)で寝た。
翌日、病院に向かう途中で会った知人の医師から「お母さんは元気」と言われた。たくさんの遺体を見て心細くなっていたのでうれしかった。母は背中にガラス片が刺さり、病室のベッドでうつぶせになって寝ていた。私は「先生は『元気にしている』と言ってたのに」と泣き叫んだ。母は「元気にしとったか。けがはないか」と心配そうに話した。
それから数年後、傷口がかゆくなった母の背中をもむと、体の中からガラスが出てきたそうだ。身内から聞いた。
<私の願い>
被爆者自身が体験を語るのは説得力があり、私は平和案内人になった。将来的に戦争の愚かさを知ってもらったり、核廃絶を訴える行動ができるのは若い人たち。後世にも伝えてほしい。