当時、私は八歳。長崎市南山手町に住んでいた。夏休みだったということもあり、朝ご飯を食べるとすぐに遊びに出かけた。浪の平町にあった海岸付近で遊んでいると、午前八時ごろ空襲警報がなった。近くにあった防空壕(ごう)に逃げ込んだ。いつも避難していた防空壕ではなかったので、周りは知らない人ばかりだった。
一時間ほどして解除になり、防空壕の入り口から三メートル離れた場所で「泥まんじゅう」を作って遊び始めた。二回目の空襲警報が鳴った。これまで警報が鳴ると、必ず避難していた私だったが、なぜかこの日は「また空襲ばい」と言って避難せず、泥まんじゅうを作り続けた。
南山手町にあった国民学校の屋上にいた見張りが鐘を鳴らし、警防団の人たちが「敵機」と叫ぶ声が聞こえた。「B29ばい」と思った。かがんでいた体を起こした瞬間、これまでに経験したことのない熱さを感じ、周りが真っ白く光った。何がなんだか分からないまま、必死で防空壕に駆け込んだ。
防空壕を出ると、すぐに学校へ向かった。学校は鉄筋の校舎一棟と木造の校舎一棟だったが、このうち木造校舎の窓ガラスは全部割れていた。校舎内にあった用務室では、障子やふすま、建具などが爆風の影響で散乱していた。まるで、猛烈な台風が通り過ぎた後のようだった。
夜は真っ赤に染まった浦上方面の空を、高台にあった家から家族と一緒にぼうぜんと眺めた。
原爆投下から四日後、村松村(現在の琴海町)にあった親せきの家に歩いて行った。長崎駅付近に差し掛かると、異様な感じになったことを覚えている。爆心地の松山町を通ると、馬などの動物の死骸(しがい)を多く目にしたが、「怖い」という気持ちは全くなかった。
しばらくの間、親せきの家で生活を送ったが、近所にある一軒の家で毎晩、葬式があっていた。「なぜ葬式が続くのか」という答えは、八歳の私にはまだ分からなかった。
<私の願い>
被爆体験をなぜ語り継がないといけないのか。平和だったら語り継ぐ必要はない。六十一年前の悲惨な光景を繰り返さないためにも、若い人たちは「今」と「これから先」の事だけを考えずに、過去の事も振り返ってほしい。また、なぜ被爆者が体験を話しているのか理解してもらいたい。