十六歳の私は古里の五島を離れ、三菱工業青年学校の三年生だった。平戸小屋町の三菱電機製作所に配属され、モーターなど工作機械の修理や整備を担当していた。
寮は城山町にあり、あの日はいつものように寮生二十人ぐらいでまとまって歩いて出勤した。竹の久保町付近で警戒警報が聞こえ、午前八時半ごろには職場にいた。
同僚と三人で工作機械の部品を取り替える作業をしていて、休憩しようとした際、突然、木炭が焼けるような赤と黒の光線が差し込み、「ゴー」というドリルで地中を掘るような何ともいえない音が聞こえた。
間もなく、ものすごい爆風で三メートルぐらい体を吹き飛ばされ、後頭部と腰を強打し瞬間的に意識を失った。気が付くと工場の鉄骨が崩れ、ガラスがほとんど割れていた。爆風で機械がほこりと泥まみれになり、「新型爆弾が落ちたぞ」とみんなが騒いでいた。
海軍の工作隊が助けに来てくれて、工場の裏にあった防空壕(ごう)に寝かされた。体中が痛かったが我慢した。
近くに大きな広場があり、翌日からそこに野宿し、十人余りで次々と運ばれてくる遺体の火葬に追われた。家などを解体した廃材を一メートルぐらい積み上げて、油をまいて火を付けていた。遺体はほとんど黒こげで、きれいに肉が残っている人が少なかったのをよく覚えている。朝から晩まで飲まず食わずだった。
十二日だったと思う。城山町の寮を見に行ったが、家々は倒壊して姿形がなかった。浦上川付近を歩いていると小さな子どもの遺体があり、水色のパンツが尻にへばり付き、顔も崩れてよく分からなかった。
十五日の昼ごろに五島の父が漁船に便乗し、捜しに来てくれた。翌十六日の夕方に長崎港の岸壁を出港し、十七日の朝、船を乗り継いで古里の荒川にたどり着いた。
帰ってからは頭髪など体毛が抜けてしまい、頭がぼーっとすることも多く、福江の公立病院などで診察を受けた。現在でも幻覚症状などに悩まされている。
(上五島)
<私の願い>
被爆して六十年がたった。世界を見ると国によって人種や精神が違う。時代に即応した政治で外交を正常化し、良い方向に向かってほしい。戦争のない平和な世界を望む。