谷島ツヤ子
谷島ツヤ子(76)
谷島ツヤ子さん(76) 被爆地から1.1キロの大橋町で被爆 =壱岐市郷ノ浦町渡良浦=

私の被爆ノート

生き地獄の中を避難

2006年3月16日 掲載
谷島ツヤ子
谷島ツヤ子(76) 谷島ツヤ子さん(76) 被爆地から1.1キロの大橋町で被爆 =壱岐市郷ノ浦町渡良浦=

一九四五年三月、壱岐郡渡良村立渡良中学校を卒業すると、級友四人と理由も分からないまま長崎に行った。十四歳だった私にとって、両親の元を離れるのは初めて。悲しさと不安を抱いたまま、夜遅く浦上駅前にあった寮にたどり着いた。

翌日から三菱兵器製作所大橋工場で魚雷を造る作業が始まった。私たち女性は鉄材のさび落としが毎日の仕事だった。

その日も朝から夏日和。暑苦しい工場の中で、さび落とし作業をしていた。いつものように空襲警報のサイレンが鳴ったので避難したが、警報が解除されて工場に戻った瞬間、紫色を交えた言葉では言い表せないような閃光(せんこう)があり、少し遅れてごう音が襲った。工場は崩れ落ち、残がいに押しつぶされ、私はそのまま気を失ってしまった。

どのくらい時間がたったのか分からなかったが、熱風と煙のにおいで気が付いた。右手がやっと動かせたので、木材を押しのけて外を見たら「火の海」が眼前に迫っていた。死に物狂いで、その場から逃げ出し、寮の防空壕(ごう)に飛び込んだ。痛む右腕を見ると、皮膚が膨れ上がって、例えようのない色をしていた。

寮母さんが来て、壕内の私たちを山手の方に避難させてくれた。履物と布きれを拾い、山の中で夜を過ごした。その途中の光景は、十四歳の私にはあまりにもむごく、恐ろしいものだった。「痛い、痛い、助けて」「お母さん、お母さん」と泣き叫ぶ声や、あちこちから聞こえるうめき声。まさに生き地獄だった。

翌朝から、諏訪神社に移り、治療が始まったが手の施しようがなく、痛みと怖さをこらえ、じっとしているだけだ。

終戦の日、どのようにして壱岐に帰ったのかはよく覚えていない。右手の皮膚はただれ、中にうじがわき、何ともいえない悪臭がしたことだけは今でも覚えている。両親、兄弟に出迎えられたとき、生きて帰れた喜びで、いつまでも涙が止まらなかった。
<私の願い>
多くの人の尊い命と大きな犠牲の上に、今の平和があることを忘れないでほしい。子どもたちに、二度とこのような悲惨で悲しい思いをさせてはいけない。再び戦争をしないこと、核兵器の恐ろしさと怖さの体験を語り継いでいきたい。

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