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私の被爆ノート

灰の街に響く家族捜す声

2006年3月9日 掲載
土井 昭義(76) 土井 昭義さん(76) 爆心地から約1.2キロの竹の久保町で被爆 =西彼長与町高田郷=

一面灰になった被爆地で、男性が一人立ち尽くし、家族と思われる人たちの名前を一生懸命叫んでいた。その時初めて、泣きそうになったことを覚えている。

当時十五歳。県立瓊浦中(現在の県立長崎西高)四年だった。前年から学徒動員され、一九四五年七月から三菱長崎製鋼所(長崎市茂里町)に勤務。八月は石炭を運ぶ仕事をしていた。

九日は出勤すると待機の指示が出た。浦上川を渡り対岸にあった防空壕(ごう)の入り口付近で、二メートルほどの高さに積まれた坑木の上に同級生数人と座り雑談していた。

近くの民家で流していたラジオ放送を、三年の後輩に聴かせていたら「(敵機が)島原半島上空を旋回中」との報が入った。「そろそろ来るぞ」と思う間もなく、「バーッ」と飛行機の爆音が響き、パッと閃光(せんこう)が広がった。

気が付くと坑木の下に落ちて倒れていた。帽子と上着の右側が燃えており、顔と上半身にやけどを負った。一緒にいた中には、正面から熱線と爆風を浴び、やけどで皮がむけた同級生もいた。

しばらくして防空壕に避難した。医者を捜しに外に出た生徒が「火が燃えさかって病院も全滅だろう」と話していた。その時はなぜそこまでひどいのか、不思議だった。

午後七時ごろ防空壕を出て、式見村(現在の式見町)の家に向かった。大橋、城山一帯は灰ばかりで何もなかった。溝の中に黒い遺体があった。身を隠していた被爆者から「攻撃の的になるから歩いてくれるな」と言われた。叫んでいた男性もこの付近で見た。家族を亡くしたのだろう。悲しい気持ちになった。

やけどの治療に四カ月かかり、十二月に長崎中(当時)の鳴滝校舎で再開していた学校に復学した。友人たちが体中をうじに食われたり、元気だったのに突然血を吐いたりして亡くなっていたことを知った。
<私の願い>
非戦闘員を大量に殺す残酷な原爆が使われたこと自体、許されない。それなのに、多くの核兵器が今も存在することは、なお許せない。「使える核」の開発などもってのほか。一刻も早く核兵器の数をゼロにしてほしい。

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