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私の被爆ノート

無線で「長崎に新型爆弾」

2006年3月2日 掲載
北川 正孝(79) 北川 正孝さん(79) 爆心地から約2.4キロの立山町(当時)で被爆 =長崎市丸尾町=

同盟通信社長崎支局の無線技師として、長崎市立山町の防空壕(ごう)に置かれていた県防空本部で、東京本社から送信される無線(モールス信号)を和文タイプライターでたたいていた。

当時、壕内には無線技師が三人おり、一時間ごとのローテーションで仕事をしていた。あの日は朝から出勤で、「六日、広島に新型爆弾が落ちた」「ピカッと光ったら物陰に伏せろ」「なるべく黒い服は着るな」などの情報をタイプライターで紙に書き写していた。

突然、外から「バーン」という音が聞こえた。次に電気が消え、「おやっ」と思った瞬間、これまで経験したことがないくらいの爆風が入り口から中に入ってきた。あまりもの強さに、いすに座っていた私の体は吹き飛ばされ、頭上の棚からは受信機などが落ちてきた。幸いけがはなく、「爆弾が入り口を直撃したな」と思った。

入り口がふさがっていないか確認するため外に出ると、先ほどまで青かった空が真っ黒な雲に覆われ、夕暮れのようになっていた。手足や顔にガラスが刺さったりして血を流した人たちが防空壕に逃げ込んできた。全身をやけどした男性は、はって中に入ってきた。

「どうしたんですか」と聞くと、「爆弾が直撃しました」と返事があった。その時は、まだ何があったのか把握できなかった。必死で避難してきた負傷者を、ろうそくで照らし出された壕内に運び入れた。

停電はその日夕方には復旧したが、仕事に戻ったのは翌十日の午後だった。前日逃げてきた負傷者約二十人の姿はもうなかった。壕内で働いていた女子挺身(ていしん)隊員に聞くと、「そのまま死んでしまって外に運び出された人もいた」と話してくれた。悲しかった。全員がどうなったのかはいまだに分からない。

原爆が落ちた松山方面に行こうとしたが一面燃えており、熱くて中に入れなかった。実際に現地に足を運んだのは、原爆投下から一カ月たってからだった。

本社から無線で「長崎に新型爆弾が落ちた」という情報がむなしく流れてきたのを覚えている。
<私の願い>
これからの時代、国と国の戦いが始まると必ず原爆戦争になる。全世界の人たちが「戦争をしてはいけない」という思いを胸に刻み込まないといけない。国の指導者が戦争を始めようとしても、国民全員ではね返すことが大切。すでに、広島と長崎は痛い目に遭っているのだから。

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