当時は三菱工業学校に在籍していたが、ほとんど授業はなく、工場に勤労動員させられていた。燃料不足のため、車やトラックを木炭車に改造する作業をしていたとき、突然ピカッと光った。「そばに爆弾が落ちた」。そう思った瞬間、爆風で吹き飛ばされたようだ。気が付くと目と耳を両手で必死に押さえていた。
誰かがメガホンで「防空壕(ごう)に逃げろ」と叫んでいる。工場の屋根はすべて吹き飛び、残っているのは骨組みだけ。無我夢中で逃げる途中、馬が倒れてもがいていたのを覚えている。真っ赤な鮮血を流し、破れた服に火が付いた若い女性の姿も忘れられない。
防空壕では、工場で働かされていた囚人たちが、全身傷だらけの私のふんどしを外し、頭や腕に巻き直してくれた。しばらくすると三菱長崎製鋼所の重油に火が付き、煙が防空壕にどんどん迫ってきた。囚人たちが廃材を利用して作ったはしごでがけをよじ登り、銭座町方面に逃げた。
だが民家はすべて倒れ、道を埋めていた。つぶれた屋根の上を必死で歩いていると、足元から「助けてくれ」との声が聞こえた。しかし、立ち止まる余裕すらなかった。
多くのけが人を見ながら山を越えた。伊良林国民学校に駆け込んだが、長時間にわたって待たされた上、治療らしい治療をしてもらえなかった。「これでは死んでしまう」と思い、東長崎に向かった。
自宅があった大草村(現・諫早市多良見町)の友人らと出会い、一緒に日見峠を目指していると、知人が運転する三菱のトラックが通り掛かった。大浦の食料倉庫から日見トンネルに米を運ぶ途中らしかった。しばらく荷台に乗せてもらい、峠を越えると再び歩いた。たすきやエプロン姿の国防婦人会におにぎりをもらったが食べないまま、深夜になって自宅にたどり着いた。
その後、長崎から大草に戻ってきた人がばたばたと死んでいった。けがが一番ひどかった私も「そう長くない」とうわさされたが、母の必死の看病のおかげで今の私がある。ただ、左手の指は一年間動かなかったし、ガラスの破片は何年も体の中に埋まったままだった。
<私の願い>
平和を維持し、戦争をしないための手段として、憲法改正や軍隊は必要ではないか。もちろん暴力で平和は保てないし、戦争もしてはいけないが、何もなければ国は守れないと思う。