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私の被爆ノート

眼下の街中 火の海に

2006年2月16日 掲載
川野 浩一(66) 川野 浩一さん(66)= 爆心地から3.1キロの長崎市本紙屋町(現在の麹屋町)で被爆 =西彼長与町高田郷=

一九四五年八月九日。五歳だった私は、家の前で近所の小学五年の友達と遊んでいたが、上空から聞こえてきた「ブーン」という飛行機の音に気付き、機影を二人で探していた。音は金比羅山の方向からだった。

朝から出されていた空襲警報が解除されていたので、「友軍機やろう」と言ったとき、突然友達が自分の家を目がけて走りだした。彼の手が玄関の戸に届くか届かないかのところで、私の記憶は途切れている。ピカッという閃光(せんこう)も、爆裂音も覚えていない。

気が付くと、遊んでいたところから約十五メートル離れた場所に倒れていた。そばでは近所の中学二年の男の子が、額にガラスが刺さり、血を流していた。私は幸い無傷だった。二人はぼうぜんとして立ち上がったが、辺りは夕暮れみたいに薄暗かった。近くの防空壕(ごう)に逃げ込むと、近所の人たちが口々に「新型爆弾のごたる。どこに落ちたとやろか」と話していた。

しばらくして、母が迎えに来た。家の防空壕は家の前の川沿いにあった。祖父は耳に少しけがをしていたが、無事に戻ってきた。姉と妹は中通りの空き家の留守番をしていて被爆し、天窓が落ちてきたそうだが、奇跡的に無傷だった。私たちは真っ暗な防空壕の中で恐怖に耐えていた。

壕の外では、西山を越えて大勢の人が逃れてきていた。祖父母は壕を出入りしていたが、「大やけどして男か女かも分からんごとして通いよらす。出ちゃいかんばい」と繰り返し、外を見ようとするのを押しとどめた。

間もなく避難命令が出たので、現在の瓊浦高(伊良林二丁目)のグラウンド近くにある防空壕へ移動した。長崎駅の方向の空は真っ黒な炎と煙に包まれ、火は近くまで来ていた。怖くなり、山道を急いだ。

夜、グラウンドから見た光景は今も鮮明に覚えている。眼下の街中が火の海だった。トラックに積んだバケツを手渡しリレーしながら、一生懸命に消火する姿が見える。ようやく一軒の家の火が消え、次の家の消火に当たっていると、また別の家が燃えだす。しばらくすると、もう消す人も来なくなった。その夜私は「煙の入ってくる、早く逃げよう」とうなされたそうだ。
<私の願い>
戦争は人類最悪の犯罪。子や孫には絶対に味わわせたくない。大戦前、戦争に国民が反対できないよう準備が着々と進められていた。改憲が叫ばれ、「軍艦慣らし」などが行われる現在、歴史は繰り返されるという危ぐを抱く。軍事費を増やすより、諸外国との友好関係構築に腐心すべきだ。

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