北大浦尋常小の六年生だった。諫早の長田地区にある母親の実家に疎開していたが、夏休みで長崎市東山町の自宅に帰ってきていた。
あの日は澄み渡るような青空。午前十一時ごろは一人で昼食の準備をしていた。空襲警報が鳴り、避難するため居間でもんぺに片足を入れた時だった。「ピカッ」と私のすぐ前まで強い光が突き刺さる感じがした。何が起きたのか分からなかったが、条件反射的に家の床下にあった防空壕(ごう)に転がるように逃げ込んだ。
自宅に防空壕がない近所の人も逃げてきた。五分か十分ほどして、祖父が「キヌ子」と叫んでいるのが聞こえ、近所の人も防空壕を出た。家ではたんすが倒れ、時計が止まっていて、祖父と片付けた。
そうしているうちに、兄と父が帰ってきた。目の治療に出掛けていた兄は大学病院から帰る途中、八千代町で電車の中にいて被爆。父も仕事場に向かう途中、海星中の近くで被爆したが、二人ともけがはなかった。兄は「浦上の方はあっちもこっちも燃えよるぞ」と言い、大変な事だと分かった。兄は電車の中で屋根があったので、奇跡的にけががなかったのだろう。
午後二時か三時ごろ、全身にガラスが刺さり、「痛か」とおめく六十歳くらいのおじさんが町内会長と警察の人に抱えられてきた。大波止で被爆した祖父の知人で、私の家を頼ってきたのだ。歩いて五分くらいの防空壕に町の人が連れて行った。防空壕はけが人が十人ほどいて足の踏み場もない状態だった。
その日の夜、防空壕を出ると、浦上方面は赤い炎に包まれていた。大浦の方に迫ってきそうな勢いで、私も含め子どもはみんな泣いていた。
二、三日後、祖父がおじさんの家族に連絡するため浦上を通り式見まで行った。祖父は「馬や牛と一緒にたくさんの人が死んでいた」と残酷な状況を話した。今でも式見への道を通るたびに「この道を通ったんだな」と思う。
防空壕にいたおじさんは、家族が松が枝まで船で連れにきたが、その翌日に亡くなった。
<私の願い>
あの日から六十年以上たった今でも、世界各地でテロや戦争があるが、同じ人間がすることだろうかとむなしく思う。何の罪もない人が犠牲になる戦争の体験は、子どもや孫の世代には絶対にさせたくない。