運命とは不思議なもの。永井隆先生の下で看護婦として働くようになったのは一九四四年。長崎医科大付属病院物理的療法科(現在の放射線科)の婦長を打診された。断るつもりで訪ねると、早速歓迎会。ドジョウすくいを踊ったり、動物のまねをしたり。「愉快な先生、楽しく仕事ができそう」。直感で引き受けた。
あの日―。朝礼を終えると、空襲警報が不気味に鳴り続く。警戒警報に切り替わったので、防空壕(ごう)から職場に戻り、病院一階の部屋で書類整理をしていた。
目を射るような光。爆風で吹き飛ばされ、地面にたたきつけられた。辺りが真っ暗になり、重いものが体の上に覆いかぶさった。
「婦長さん、婦長さん」。誰かが呼んでいる。口にごみが詰まって声が出ない。がれきからはい出ると、近くの水道の蛇口から水が流れていた。やっとの思いで水を口に含み、うがいをした。廊下に飛び出すと、眼下の町は火の海だった。
永井先生は長崎原爆の直前の四五年六月、白血病で「余命三カ月」と宣告されていた。先生はあの時、病院二階で古いエックス線写真の整理をしていた。爆風で飛んできたガラスで右こめかみを切っていた。しかし、血まみれになりながら、けがを負った患者を助け出す指示を飛ばした。
病院の玄関前に急ぐと、けが人の山。倒壊した病院にも火の手が迫っていた。医者、看護婦、職員みんなで患者を背負い、病院裏のイモ畑に逃げた。周囲は苦しむ人であふれていた。水を求める人。放心状態でわが子の名前を叫ぶ人。死んだ母の乳を探す赤ん坊―。しばらくすると、病院は燃え落ちた。
十日。米軍機がまいたビラを見た。原子爆弾が落とされたと分かった。十二日。永井先生を隊長に第十一救護隊に加わり、三ツ山に向かった。途中、永井先生の奥さまの変わり果てた姿を見つけた。
三ツ山に着くと、一軒家を借り、救護活動の本拠地にした。それから五十八日間、休むことなく、永井先生とともに原爆でけがを負った人たちの巡回診療を続けた。
<私の願い>
この年まで生きられたのは永井先生のおかげ、と毎日感謝している。先生が願ったように、いつまでも平和が続きますように。戦争は二度と繰り返さないように願っている。