宮城 満幸
宮城 満幸(75)
宮城 満幸さん(75) 入市被爆 =雲仙市南串山町=

私の被爆ノート

破壊力に ぼうぜん

2006年1月26日 掲載
宮城 満幸
宮城 満幸(75) 宮城 満幸さん(75) 入市被爆 =雲仙市南串山町=

長崎市東部の矢上村(当時)に住んでいた私は、国民学校高等科を卒業し近くの郵便局に勤めていた。

あの日は休みだったと思う。朝七時ごろ起床。しばらく自宅にいて所用で外出することにした。家の玄関を開けるとB29爆撃機が白い機体を光らせながら長崎の中心部に向かって飛んでいった。

機体が見えなくなった後、突然目がつぶれるような光が走り、あまりのまぶしさに両手を顔に押し当てた。その数秒後、ものすごい爆風に襲われた。

予期せぬ出来事に動揺しながら家の中に入ったが障子は倒れ、押し入れの布団も外に飛び出るなど雑然。外は真っ暗。太陽は赤黒くなり、丸い月のように見えた。米軍から攻撃を受けたのは分かったが、あまりの破壊力にただぼうぜんとするしかなかった。

地元の村役場に勤めていた父が帰宅し、「新型爆弾が長崎に落とされたそうだ。街のほうはひどくやられたようだ」と話していたのを覚えている。

翌十日の朝、近所の親しい青年から「長崎市城山町の親せきの安否を確認したい。同行してほしい」と誘われた。二人で歩いて城山町まで向かった。目の当たりにした町の惨状が今でも忘れられない。

辺り一面焼け野原。体中焼けただれた死体、やけどや負傷で苦しんでいる人に遭遇した。あまりのむごい光景にショックで言葉を失った。青年も親せきを見つけることはできなかった。

矢上村の人も市街地で被爆したときの大やけどがもとで亡くなったり、無事だった人も数日後に突然体調を悪くしたり頭髪が抜け落ちた。あとになって放射線の影響だと分かったが、当時はこんな爆弾を造るアメリカはなんて恐ろしい国だと思った。

終戦と同時に郵便局をやめ、トラックの運転手や大工、市内の船舶装備業の会社に勤務した後、縁があって南串山町で木工所を営むことになり、約五十年間この道一筋で頑張った。六十歳のころ脳梗塞(こうそく)と糖尿病で入院し、退院後も頻繁に病気をする。原爆との関係は分からないが、体は年々弱くなるばかりだ。
(雲仙)

<私の願い>
戦時中は「早く兵隊になって国のために尽くしたい」と思うのが当たり前で、それが当時の教育だった。確かに辛抱強さは学んだが、結果的に尊い命をなくす教育は間違い。どんな理由でも人間同士が殺し合うのは絶対にいけない。平和な世の中を望む。

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