樋口 弘之
樋口 弘之(67)
樋口 弘之さん(67) 爆心地から3.3キロの長崎市万屋町で被爆 =長崎市万屋町=

私の被爆ノート

がれき下から命拾う

2006年1月19日 掲載
樋口 弘之
樋口 弘之(67) 樋口 弘之さん(67) 爆心地から3.3キロの長崎市万屋町で被爆 =長崎市万屋町=

小学一年生だった私は、近所の上級生らと家の前の空き地で、塀に上ったり隠れたりしながら遊んでいた。空襲警報が鳴り、母が呼びに来た。でも、母の言うことを聞かず遊びに夢中になっていた。三歳下の妹が一人で家にいたので、母はすぐに家の中に戻って行った。

しばらくして空がピカッと光り、強い風が吹いた。気が付いたら防空壕(ごう)の中。顔など右半身にはガラスが刺さり、記憶も断片的にしかない。ただ、担架で救護所に運ばれる途中に見た、煙で覆われた灰色の空を今でも覚えている。

なぜか小学一年の時の思い出だけ、ぽっかり抜け落ちている。入学式や担任の先生の顔など、すべてが記憶にない。覚えているのは原爆を受けたことと、灰色の空の色だけだ。

戦後はとにかく貧しかった。毎日食べる物がなく、農家に芋をもらいにいけば、つるの部分までもらってきて、皮をはいで食べた。配給米には小さな石が交ざっており、いつも黒い紙の上で米粒と石を分けていた。裕福な親せきからバナナをもらったとき、「こんなに甘くておいしい食べ物があるんだ」と衝撃だった。今では安く手に入るので、孫たちが食べ散らかすのを見ると複雑な心境だ。

小学校高学年の時、手の甲などにぷっくりと腫れ物ができて、押し出してみるとガラス片が出てきた。何度かそういうことが続き、最初は驚いたがそのうち何とも思わなくなった。姉は髪が抜けたりしていたが、私は下痢が続いただけで大きな病気もしなかった。

十年前、あの日私が助かった経緯を、助けてくれた本人から聞くことができた。私を助けてくれたのは近所の学生で、「弘之が埋まっとる」と自分の父を呼び、がれきの中から私を必死に掘り出してくれたという。生きている間に命の恩人に会うことができ、本当に良かった。
<私の願い>
原爆、東京大空襲、沖縄本土戦など、被害の形は違っても戦争で味わう苦しみの本質は同じ。戦争は反対だが、現実は危うい方向へ進んでいる。戦争を知らない世代が、安易に国際問題と戦争を結びつけてはいけない。

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