まるで花火が目の前をシュッと横切ったような白い閃光(せんこう)。その光の中を、あらゆるものが真っ白くなって飛んでいった。当時、三菱兵器大橋工場のロケット推進研究部に勤務。その日初めて組長と言い争いをし「仕事なんかすっもんか」と、同じ建物内の隅のついたてで区切られた場所にいた。空襲警報が鳴ったが、大丈夫だろうと高をくくっていた。
閃光の後、組長らがいた辺りは、血だらけの人たちがうめいていた。窓際の人は反射的にしゃがんだのか、建物の中央部にいた人の方が、割れたガラスの直撃を受けていた。自分の手を頭にやると、スレートの屋根が当たったようで血がだらだらと流れていた。
外に出ると、頭から流れる血を止めようと、しきりに泥を塗っている友人の池田君と出会った。「水が飲みたい」と頼まれたが器がない。畑の側溝に飛ばされたカボチャを半分に割ってくりぬき、水を飲ませた。「うまい」と感謝する池田君に、自分のシャツを着せて別れた。
救援列車が来ると聞き、駅に向かって歩いた。瀕死(ひんし)の人から腕時計を奪う人やニワトリの毛をむしり、救護かばんに入れる人―。人間の醜さも見た。今の赤迫近くで、二階建ての家がつぶれ、夫らが下敷きになっていると、女性が助けを求めてきた。声が聞こえたが火勢が迫り、どうすることもできなかった。
列車の中は、両親の名を呼ぶ声や泣き声で満ち、地獄絵のようだった。大村の病院や竹松の兵舎で治療を受けたが、吐き気が止まらなかった。血の付いたままの服で口之津に戻ったが、満足な薬もなく、母親からドクダミをせんじたものを、しばらく飲まされた。
終戦後、退職金をもらいに、再び長崎に戻った。集合場所に行くと、死体に書かれたシャツの名前から、私は死んだことになっていた。担当者に池田君の名前を告げ、死亡者名簿に載せてもらった。街は牛や馬の骨が散乱する惨状のまま。私は表面が焼けただれて、でこぼこになった瓦の破片を一つ手に取り「あの日のことを忘れまい」と持ち帰った。
(口加)
<私の願い>
原爆の体験を継承していくことは被爆者共通の思い。満ち足りた今の人たちには実感がわかないだろうが、甘いものや物資がなく、苦しい思いをした戦時中の人々の生活も、語り継いでいかなければならない。