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私の被爆ノート

姉の死信じず探し回る

2005年12月22日 掲載
黒田 賀久(72) 黒田 賀久さん(72) 爆心地から3.4キロの新中川町で被爆 =平戸市生月町舘浦=

当時十二歳。旧制県立長崎中学校に通うため、生月島を離れ、長崎市新中川町の一番上の姉夫婦宅に間借りしていた。空襲警報から警戒警報に切り替わった矢先、ピカッと光り、その後に猛烈な爆風が襲ってきた。家の中は茶棚が倒れガラス片が飛び散ったが、姉と私は無傷だった。「爆弾が落ちた」。ベランダに上がると、浦上方面の上空が真っ赤に染まっていた。片淵の司令部に詰めていた義兄と、三菱兵器製作所に勤めていた二番目の姉の安否が心配だった。

姉と二人で家の中を掃除していたら、夕方になって義兄の上官ら二人が来て「本日の戦災で名誉の戦死を遂げられました」と告げた。義兄は倒壊した建物の下敷きになったという。姉は気丈に「はい」と答え、火葬のため上官らと出て行った。防空壕(ごう)に避難した私は一晩中泣いた。

翌十日。家に戻ると、白い箱に入った夫の遺骨を抱いて一人泣きむせぶ姉の姿があった。その姉とともに、二番目の姉を捜すため長崎駅辺りまで歩いたが、「ここから先は危険だ」と注意され、引き返した。

十一日。浦上の街は焼け野原だった。黒焦げの遺体が無数に転がっていた。浜口寮の姉の部屋に着くと、真っ黒の遺体が二つあった。大柄の方が間違いなく二番目の姉だと思ったが、姉も私も認めたくなかった。「きっと生きている」と思い直し、十二、十三日も救護所を回った。三日三晩、何を食べたか覚えていないほど歩いた。

どの救護所も悲惨だった。全身やけどで性別さえ分からなかったり、またが裂けた人もいた。「水をくれ!」と足をつかまれたこともあった。十三日になると、国民学校で遺体を焼く作業が始まった。町中に何ともいえないにおいが漂った。

結局、二番目の姉がいたとみられる浜口寮には二度と行かなかった。生月に帰郷してから間もなく髪の毛が抜けたり、目がかすむなどの症状が出たが、その後幸いにも体調は回復した。数年前から、地元の小中学生に自らの被爆体験を話している。
(平戸)

<私の願い>
戦争を二度と起こさないためにも、若い世代には過去に何があったのか事実をしっかりと学んでほしい。被爆者がいなくなっても、被爆体験はあらゆる形で語り継がなければならない。

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