家野町にあった長崎師範学校予科一年生。教練と体操の授業を終え、次の音楽の授業のため早めに音楽教室に入り、オルガンの練習をしていた。「シュー」という音を聞いた。その途端、ものすごい閃光(せんこう)を感じ、すぐに「ドーン」というさく裂音が低く響いた。
強い光にやられて目の前は真っ暗。気が付くとオルガンの下に頭を入れていた。部屋中に白煙のようにおびただしいほこりが舞い、息苦しかった。
予科一年は一組と二組に分かれ、私は二組だった。原爆がさく裂したとき、一組は運動場で教練中だったため多くが犠牲になった。二組は音楽の授業で助かった者が多かった。ちょっとしたことが生死を分けた。
「早く逃げろ」。生徒を避難誘導する音楽教師に従い、教室の外に出て近くの防空壕(ごう)へ向かった。市内の方を見ると黒煙と炎の海。四方の山々はあちこちで山火事が起きていた。学校を出ると、血まみれの人々が水を求めてさまよっていた。まさに修羅場だった。
防空壕に着くと、学校の先輩が「博司よ、やられたばい」と話し掛けてきた。先輩は上半身裸で、顔から首にかけて皮膚がむけていた。熱線によるやけどらしい。誰かが「やけどにはカボチャの汁が効く」と言うので、畑からカボチャを取ってきて汁を搾った。先輩の顔に汁と種が落ちた。先輩は「痛いからもういい」と言った。
師範学校の生徒に「長与国民学校に行くように」と避難連絡があった。私は上着を脱いで先輩にかぶせ、二人で長与に向かって歩き始めた。町中が火に包まれていた。学徒動員の女学生が血まみれで「お母さん、お母さん」と泣き叫んでいたのを覚えている。炎を避け、道ノ尾を経て長与国民学校に到着したのは夕方だった。
長与国民学校の教室はどの教室もけが人で満杯だった。全身が焼けただれたまま治療も受けられず、毎晩何人かの仲間たちが死んでいった。私は原爆を許さない。
(対馬)
<私の願い>
たった一発の原爆が夢を抱いていた多くの若者を殺りくした。悲惨な戦争を繰り返してはいけない。長崎を最後の被爆地とするために平和を祈り続けたい。