その日、私は三菱長崎造船所(ト)工場の事務所(小菅町の勝廓寺)で働いていた。学徒動員の中学生で、十五歳だった。突然、正面の入り口から青白い光が入ってきた。驚いて立ち上がった。
何が起こったのか、とドアの方に行こうとしたが、目がくらんで歩けない。立ちすくんでいるとズズーンという地響き。「ばくだん!」。とっさに目と耳を押さえ、事務所の床に伏せた。
次の瞬間、猛烈な爆風が正面ドアのガラス戸を突き破った。ガラスの破片が背中に降ってきた。工場がやられたと思った。
やがて静かになったので、そっと起き上がると、背中からバラバラとガラス片が落ちた。ひじまでまくり上げていた両腕から血が流れていた。
外に飛び出した時、長崎駅の方向にきのこ雲を見た。まるで竜巻のように立ち上っていた。駅の周辺は家がみなつぶれ、火の手が上がっている。しかし、きのこ雲の下で何が起こっているのか、分からなかった。
数時間たって、兵隊らしい人が担架で運ばれてきた。大やけどで顔の形が分からないほど焼けただれていた。生きているのか、死んでいるのかも分からなかった。浴衣に腰ひも一本の中年の女性は髪を振り乱し、半狂乱の様子で歩いてきた。夕方、桜馬場の自宅に帰る途中、散乱したガラス片で自転車がパンクした。町中が大混乱だった。
朝、一緒に家を出たいとこが、勤務先の駒場町の町工場から戻ってこない。その夜、浦上の谷は火の海で入れなかった。伯母は連日、いとこを捜しに出掛けた。一週間がすぎ、伯母は高熱で倒れ、鼻血が出た。歯茎からは血が出た。苦しがって頭を振ると、髪の毛がバラバラと抜けた。
けがもやけどもしていないのに、近所で同じような人が次々に死んだ。「今度の爆弾には毒ガスが混じっている」といううわさが広まった。それが放射能のせいであることを私たちは長い間、知らなかった。
伯母は高熱の中で、息子の名前を呼び続けて死んだ。
【注】三菱長崎造船所(ト)工場の「(ト)」は○の中に「ト」
<私の願い>
被爆から六十年、「長崎を最後の被爆地に」と訴え続けてきた私たちの思いは、多くの人の支えになって続いている。この願いが、一世紀続くことを願っている。