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私の被爆ノート

苦しむ女性救えず後悔

2005年12月1日 掲載
川口 末松(78) 川口 末松さん(78) 爆心地から4.2キロの戸町3丁目の自宅で被爆 =長崎市金堀町=

当時、九州配電(九州電力の前身)長崎支店長崎営業所の外線工事班として、主に配電線の復旧、改修作業をしていた。

自宅から長崎市五島町の会社までは自転車で通っていたが、八月九日はパンクし、行っても遅刻だと思ったので休みをもらった。午前九時すぎ、空襲警報が解除となり、「思いっきり休もう」と寝ていた。

目覚めたのは午前十一時二分。突然の爆風で裏口の戸が吹き飛び、飼っていたニワトリが暴れだした。瞬間的に「近くに(爆弾が)落ちたな」と思った。かまどの灰が家中に舞い、棚の木箱が落ちてきて、寝ていた私の腕に当たったが、大したけがではなかった。外に出ると、稲佐山の方向にもくもくとわき上がる黒いきのこ雲が見えた。

父は近くで農作業、母は配給を取りに行っていたが、無事だった。家が山の陰だったことが幸いした。その日は後片付けや修理に追われたが、浦上方面は大変な惨状だと聞き、国分町まで見に行った。市街地は「悪魔の火」がメラメラと燃え上がっていた。

翌早朝、会社に行くと、同じ班の後輩二人が宿直室で休んでいた。顔の皮がちぎれ、焼けただれた肉にはうじがわき、「痛か」とわめいていた。その無残な姿に「頑張れよ」と言うのが精いっぱいだった。二人は二日後に息を引き取った。

夕方には会社の指示で連絡用の電話線を確認するため、銭座変電所から金比羅山に向かった。辺りの電柱は根元から折れ、爆風のすさまじさを感じた。

変電所から三百メートルほど上ったところで「水を下さい」とか細い声で若い女性がうめいていた。服がちぎれ、焼けただれた肌が痛々しかったが、「先を急がんと」との認識が強く、「後で誰かが来るから」と言ってその場を後にした。今でも後悔している。

夕方には、行方不明の社員を捜しに浦上川沿いを歩いた。男か女かも分からない死体が折り重なるようにあり、みんなおなかが膨れていた。途中の橋は壊れていて、周りに見えるのはコンクリートの基礎や水道、ガスの管くらいだった。爆心地に近づくにつれ、その猛烈な破壊力と人間のはかなさを感じた。
<私の願い>
戦争は殺し合い。原爆の悲劇を繰り返さないため、外国と友好な関係をつくり、戦争をしない国づくりをしてほしい。また、若い人の平和運動の輪が広がることを願っている。

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