吉田 勇
吉田 勇(72)
吉田 勇さん(72) 爆心地から約4.1キロの長崎市中新町の自宅近くで被爆 =東彼川棚町白石郷=

私の被爆ノート

兄の遺骨代わり 石拾う

2005年11月25日 掲載
吉田 勇
吉田 勇(72) 吉田 勇さん(72) 爆心地から約4.1キロの長崎市中新町の自宅近くで被爆 =東彼川棚町白石郷=

「一(はじめ)兄さん どこにいるんだ」

あの日以来、父と私は三菱兵器工場に通っていた兄を捜すため、大橋町の原子野をさまよっていた。電車の線路にはなぜか車体がない車輪だけがぽつんと置かれ、不気味だった。防空壕(ごう)の奥に進むと、壁にぐったりと寄り掛かる男性の頭や顔の傷口に無数のうじがわいていた。男性はそれをむしり取ることもできなかった。

「ひどい」。辺りの防空壕に入るたび、十二歳の私はただ恐怖しか感じなかった。

きょうだい五人の中で特に成績優秀だった一兄さん。木刀を手にチャンバラに明け暮れ、いたずら好きだった私はよく怒鳴られもしたが、頼りがいがあった。

一カ月捜したが見つからなかった。あきらめきれなかったが最後の日、父は工場跡に転がる石を一つ握り締めた。遺骨代わりに墓に入れる石。「熱かったろう、痛かったろう」。家までの帰り道、大工で職人かたぎの父の背中が泣いていた。

私は長崎市の仁田国民学校の六年生だった。あの瞬間はいつも通り、友達と自宅近くで遊んでいて、光と衝撃を受けた。けがはなく、近くに爆弾が落ちたと思ったぐらいだった。

翌日、茂里町の製鋼所で働いていた姉が案外平気な顔で帰ってきた。しかし、一週間もたたないうちに髪が抜け、食べなくなった。当時、放射能に侵されているとは分かるはずもなく、「毒ガスを吸ったんだ」と言い合った。

姉は西彼三和町(現在は長崎市)の父の実家で療養中、何度も黄色いものを吐いた。母は「食べ物がのどを通ると体の中でポトンと音がする」と気をもんだ。内臓が腐れていた。一カ月後に死亡。きれいな姉さんだった。

長崎の街並みを見渡せる高台にある家からは毎晩、火葬する炎があちらこちらで見えた。兄と姉を亡くした私たち家族のように、あの炎のそばで悲しみに打ちひしがれている家族がいる。

「きょうも多いな」。父がため息交じりにそう言うと、家族で何度も何度も暗闇の先に手を合わせた。
(東彼)
<私の願い>
あのような悲劇をもたらす戦争は、もう二度と繰り返してはいけない。平和な世界を実現しなければならない。

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