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私の被爆ノート

家族全員もだえ死ぬ

2005年11月17日 掲載
井手 久枝(75) 井手 久枝さん(75) 爆心地から2キロの当時の稲佐町2丁目で被爆 =長崎市花園町=

当時の城山町二丁目に家族九人で暮らしていた。十五歳で上野町の常清高等実践女学校に通っており、学徒動員によって空襲警報発令時は、稲佐署で救助作業の補助員として働かねばならなかった。しかし、傷の手当てをした経験はなかった。

八月九日も朝から空襲警報があり、同署に向かった。解除後、近くの防空壕(ごう)前で同級生約十人と教師の話を聞いていた。飛行機の音がしたので防空壕に三、四メートルほど入った瞬間、「ドーン」と、今まで聞いた経験のない音がして、二、三メートル飛ばされた。「直撃弾ではないか」と、みんなで言いながら外に出た。県庁から煙が出ていたが、みるみる燃え始めた。父が県庁に勤めていた友人は泣きだした。

待機していると、血まみれの人たちが次々と避難してきた。「浦上方面は全滅状態」と口々に言った。私と同級生の計四人はけが人を担架で飽の浦町の三菱病院に運んだ。その後、友人三人と浦上方面へ。家族と家は大丈夫と信じて戻った。

稲佐橋を渡った時、既に薄暗くなっていた。宝町に出て線路沿いを歩いた。下の川で路面電車が黒こげになり、乗客が車外に飛び出て死んでいる惨状を見た。城山国民学校の近くで小さな子どもを抱いた若い女性に「助けて」と足をつかまれた。自分が逃げるので精いっぱいで振り払うと「薄情者め」とののしられた。油木町の友人宅の防空壕前で一夜を明かした。

翌日、家への帰路、畑で妹と同じ背格好の女の子二人を見た。「妹ではないか」と顔をのぞき込んだが、反応はなく放心状態だった。自宅はつぶれ、姉と妹の二人が犠牲になっていた。がれきの下敷きになった妹を兄弟たちが励ましたが、彼女は「苦しか、苦しか」と言いながら、息を引き取ったと聞いた。

一人で家族を看病した。「水が欲しい」とせがむ妹たちに「死んでもいいなら水を飲め。死にたくないなら飲むな」と言い聞かせた。

父が十七日に亡くなり、母と弟、妹二人が新興善国民学校に入院した。家族は鼻や口から血を吐き出して苦しみ抜いた。弟は戦死した兄の名前を呼びながら死んでいった。そして母が息絶えた八月二十九日、一緒に暮らしていた家族は誰もいなくなった。
<私の願い>
平和で家族一緒に仲良く生活することが、私にとって最高の幸せ。「あの日」の三日前でもいいから戻って家族と暮らしたい。原爆で生活は百八十度変わった。戦争や核兵器は二度とごめんだ。

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