岩崎 英也
岩崎 英也(74)
岩崎 英也さん(74) 入市被爆 =長崎市宮崎町=

私の被爆ノート

電車に山積みの遺体

2005年11月10日 掲載
岩崎 英也
岩崎 英也(74) 岩崎 英也さん(74) 入市被爆 =長崎市宮崎町=

当時、県立長崎工業学校化学科(現在の長崎市上野町)の一年生。学徒動員で三菱長崎兵器製作所大橋工場で航空機用の魚雷などを造っていた。あの日は夜勤明けだったが、朝から授業があると聞き、西彼長与町丸田郷の自宅に戻った。その後、トラックに乗せてもらい、長崎市内に入った。

現在の長崎大正門前近くで降ろしてもらった。空襲警報が鳴る中、学校のある大橋方面に歩いて行った。学校の近くに来ると、学校近くに住んでいた叔母に届ける荷物をトラックに忘れたことに気付いた。荷物が見つかるはずもなく、どうでもいい気分になり、学校に行かず、家に帰ろうと思い、浦上駅から列車に乗った。

午前九時ごろ、自宅に戻った。近所の友人とふんどし一つで寝転がり、本を読んでいた。突然、桃色の光線が目に入ってきた。「熱い」と跳び上がった。慌てて二人で長崎の方向を見ると太陽のような真っ赤な火の玉が、ゆっくりと山と山の間に沈んでいった。「広島に落ちた新型爆弾ではないか」と思った。

再び、本を読もうと、地面に寝転ぼうとした瞬間、経験したこともないものすごい爆風に見舞われ、吹き飛ばされた。友人はパニック状態になったのか、部屋を何度もぐるぐると回った後、はだしのまま近所の自宅に帰っていった。

その日の夜、現在の長崎市筑後町に住んでいた祖母の安否を確認するため、父親と一緒に歩いて市内を目指した。浜口町付近に来ると家が「ぼんぼん」と燃え、馬車引きの馬が火の中を走り回っていた。悲しくなった。無事だった祖母を背負い、歩いて長与の自宅まで戻った。

次の日から工業学校の近くに住んでいた叔母を捜すため、毎日市内を歩き回った。木造だった工業学校の跡形もないむなしい光景、大橋では焼けた電車の上に真っ黒焦げの遺体がピラミッドのように山積みになっていた悲惨な状況は今でも忘れることができない。
<私の願い>
戦争や原爆で受けた国民の痛みや苦しみを考えると、イラクへの自衛隊派遣などはあってはならないと思う。国は戦争の被害に遭った国民への補償にもっと力を入れるべきだ。

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