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私の被爆ノート

患者の皮膚がずるりと

2005年11月3日 掲載
白石 英敏(75) 白石 英敏さん(75) 8月19日、諫早中から海軍病院まで被爆患者を移す作業に従事 =松浦市志佐町白浜免=

当時、県立諫早農業学校(現県立諫早農高)の二年生。あの日は諫早市内の病院解体工事のため屋根の上で作業をしていた。

一機のB29がいつもより低空飛行していたのを一緒にいた仲間と見た。「普段なら空襲警報が鳴るはずなのに」と首をかしげ、ただただ長崎方面へと飛んでいくのを見つめた。しばらくして、三つの落下傘を落としたようだった。その直後、長崎方面の山すそが強い光で包まれた。そして、ものすごい地響き。爆風も感じ取ることができた。爆撃されたことは理解できたが、被害の大きさは知る由もなかった。

夕方になると、長崎方面から立ち上った煙で辺りが暗くなった。学校に戻ると「長崎に新型爆弾が落ちた」「諫早駅のホームは、けが人と死人でいっぱい」などと、次第に被害の大きさを知ることとなった。寮に戻り、友人らと近くの本諫早駅まで行ってみると、ぼろぼろの服を着てはだしの青年が島原行きの列車を待っていた。ただただ驚き、青年に話し掛けることもなく、そのまま寮に引き返した。

十五日、終戦の知らせを学校で聞いたが、直後に「休戦中。戦争は終わっていない」などと書かれたビラが飛行機からまかれ、多少の混乱を覚えた。

男子学生ばかりだったわが校に十九日、被爆患者の移送を手伝うよう指示があった。諫早中(現県立諫早高)の講堂に行くと、焼け焦げた何百人もの患者が、畳の上で横になっていた。首筋と脇の下にうじがわいている人もいた。

私たちは四人一組で患者を担架に乗せ、近くの海軍病院へ次々に運んだ。話す気力も残っていない患者に掛ける言葉はなかった。焼けただれた患者に触れると、ずるりと皮がむけた。移送した患者が次々と息を引き取っていったのが今も頭から離れない。しばらくは食事もできないほど体調を崩した。

講堂を包んでいたのは、イワシの腐ったような鼻を突くにおい。我慢できなかった。昔の漁港はそんなにおいだったから、漁港の近くを通るたびに弱り切った患者たちの姿が頭をよぎった。
(松浦)

<私の願い>
重傷を負い、誰が誰かも分からない黒焦げの患者が何百人もいる様子は地獄絵図そのものだった。それだけでなく、戦争では多くの人の命が奪われた。悲惨な状況を招いた戦争を、われわれは二度と繰り返すべきでない。

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