一九四五年四月、長崎師範学校予科に入学。寄宿舎は全寮制。起床ラッパで目覚め、点呼を受ける日々だった。そのころ授業が行われていたのは予科一年生(二学級)だけで、上級生は三菱兵器大橋工場などに動員され、寄宿舎から工場に通っていた。空襲警報が鳴るたびに、校舎北側の山の防空壕(ごう)に避難した。
六月になり一年生も勤労奉仕に出た。茂木でビワをちぎり、諫早で田植えをした。寄宿舎でひもじい思いをしていたので農家でコメの飯を腹いっぱい食べられるのがうれしかった。空襲警報の頻度が増し、七月下旬に校舎に敵機の爆弾が落ち、三階の床を突き抜けて二階で爆発。空襲が心底恐ろしくなった。
夏休みがないまま迎えたあの日。鉄棒のテストを受けた後、オルガンのテストに備え、音楽練習室に行った。狭い個室で練習を始めたとき、すりガラスの窓が一瞬ピカッと光った。反射的にオルガンの下にしゃがみ込んで、両手で目と耳をふさいだ途端、窓ガラスが割れて飛び散った。
ふと気が付き起き上がると、左足のふくらはぎにガラスの破片が刺さっていた。ドアを開けて部屋を出ると、廊下は土煙でかすみ、床はガラスの破片がいっぱいだった。
シャツに血が付いた音楽担当の男性教師が「運動場に避難しろ」と叫んだ。外は異様な光景だった。校舎や農場の方に走って避難したり、排水溝にうずくまっている生徒もいた。背中が焼け焦げるなど体のあちこちにやけどがあった。
街の方を見ると、たくさんの民家がつぶれあちこちから火の手が上がっていた。何が起きたか想像もつかず、ぼうぜんとなった。夜は友人らと防空壕で過ごしたが、なかなか寝付けなかった。やけどの痛みを訴える声は終夜、途切れなかった。
翌十日、重傷の友人や上級生を戸板に乗せて道ノ尾駅まで運んだ。駅舎の前は多くの重傷者が横たわって治療を受けていた。亡くなった方の遺体は別の場所に並べられ、むしろが掛かっていた。
救護活動が一段落した十一日、諫早駅を経由し島原鉄道で郷里に帰った。出征した父は家におらず、母が一人で待っていた。
<私の願い>
中学の社会科教諭として自らの体験を話し、平和教育に取り組んできた。戦争がない平和な時代であり続けることを望む。平和は努力しないと保てない。一人一人が心の中に平和のとりでを築き、二度と戦争を起こしてはならない。