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私の被爆ノート

一瞬世界が真っ黄色に

2005年10月20日 掲載
森林 良助(66) 森林 良助さん(66) 爆心地から4.5キロの長崎市愛宕町(当時)で被爆 =長崎市片淵1丁目=

当時、小学校入学前だったので記憶は途切れ途切れのところもある。あの日は夏真っ盛りで、いい天気だったことはよく覚えている。近所の子どもたち四、五人と自宅の庭で遊んでいた。私はキリの木に登り、またがっていた。

一瞬、世の中が真っ黄色になった。一、二秒間音がなくなり、「シーン」とした。その後、大きな爆風が起こった。家の中の方に向かってふすま、障子が倒れ込んだ。私は木に必死にしがみついていたのだろう。五メートルほど下の畑に落ちていたら死んでいたと思う。よく落ちなかったものだ。

爆心地と自宅の間にある山がクッションとなり、直接的な影響は受けなかったのだろう。しばらくして友人の母親が子どもの名前を叫びながら、家に走り込んできた。子どもを抱きかかえそのまま帰って行った。

父母と兄、三人の姉、私、まだ赤ちゃんだった妹の家族八人暮らし。すぐ上の姉=当時(15)=は三菱長崎造船所幸町工場に動員されていたが、その日は休んでおり、犠牲にならずに済んだ。兄=当時(13)=は中央橋で中島川に浮かぶ丸太に乗って遊んでいたらしい。家族八人は運良く無事だった。家は足の踏み場がない状態。県庁が燃えるのが見えた。その夜は、母親に手を引かれて愛宕山の山腹の防空壕(ごう)に入り、家族で眠ったという。

父は毎日疲れ果てて帰って来た。後で聞くと、亡くなった人を火葬する手伝いをしていたという。シャツには死臭が染み付き、姉たちが嫌がっていた。子ども心に、大変な仕事をしているのだなあと思った。

数日後、家族で父の出身地の東彼杵郡千綿村(当時)に疎開することになった。長崎駅付近で、電信柱につながれた馬が黒焦げになっていたのを覚えている。雨が降る中、震えながらはだしで歩いた。父の友人が車で通り掛かり、途中まで乗せてもらった。

八月十五日、姉たちは正座してラジオを聞きながら泣いていた。玉音放送を機に、姉たちも私も、原爆投下や敗戦のことを初めて知った。
<私の願い>
アメリカは原爆投下について、戦争犠牲者を少なくするため使用したと、正当化したが、大量破壊兵器を使ったことに憤りを覚える。世界平和を維持するには、「核」に頼らない方法があるはず。早期の核兵器廃絶を求める。

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