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私の被爆ノート

死者名簿に自分の名

2005年10月13日 掲載
田中 清六(77) 田中 清六さん(77) 被爆地から1.1キロの大橋町で被爆 =長崎市愛宕3丁目=

あの朝もいつも通り、午前七時ごろ山里町の下宿を出て、勤務先の三菱長崎造船第三機械工場(大橋町)に向かった。一九四二(昭和十七)年、佐賀の親元を離れ、長崎の三菱工業青年学校(川口町)に入った。週三日ずつ学校と工場を行き来し、工場では魚雷艇の部品を作っていた。

工場に着くと警戒警報が鳴り、山手の防空壕(ごう)に逃げた。すぐに解除されたので工場に戻った。原爆が落とされた瞬間のことはほとんど覚えていない。何かパッと光がした後、気を失った。気が付くと工場はつぶれ、機械が倒れていた。

「助けて」。機械の下に手足を挟まれた人が叫んでいた。一人ではどうすることもできず、火の手が迫ってきたので、その場を去った。工場の西側に広がる田んぼを越え防空壕に行ったが、人でいっぱいだった。

血まみれで歩く人たちを見て、自分もけがしていることに気付いた。両腕、両足、額の上…。衣服を着けていない部分はすべて焼かれていた。左足の付け根には鉄板片が刺さっていた。傷口から血が流れていたので、逃げながら抜き取った。

九日夕方、やっとのことで道ノ尾駅にたどり着き、救援列車に乗り込もうとした。一番列車は満員で、二番列車に回された。大村海軍病院に運ばれたが、朝まで道端で寝かされた。手当てに来た看護婦がやけどした両腕にぴったり着いた作業着を脱がそうとすると、皮膚まではがれた。

大村ではベッドがなく、十日には嬉野海軍病院に運ばれた。寝かされたトラックの荷台がガタガタ揺れ、傷口に響いた。九月末になると、髪の毛がすべて抜け落ち、医者から「手の施しようがない」とさじを投げられた。佐賀の家族の元に戻った後も、貧血がひどく、親族代わる代わる輸血してくれた。

あの工場で死んだのは千二百五十二人だった。その名簿の中に私の名前もあった。私は死んだことになっていた。一緒に働いていた純心女学校の生徒たちもほとんど死んだと聞く。かわいそうでならない。

<私の願い>
貧血、がん、胃かいよう…。子どものころ、病気一つしたことなかったのに、原爆にやられてから病気ばかり。子どもへの影響が気掛かり。被爆二世にも手厚い援護を。もう二度とこんなことは起きてほしくない。

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